今江祥智の描く「少年」

〜「写楽暗殺」から〜
2000.1.12


 今江文学に登場する「大人」達はすこぶる魅力的だ。それも常人離れしたヒロイズムではない、子供にとってじかに触れることがさぞかし大きな肥やしになるだろうと思わせる人間味、温かみに満ちた魅力。そのひとりひとりが、生きる世界(ありていに言えば仕事)において一級品の能力を持っていることもまた言うまでもない。大人を矮小化して描くことで子供に媚びているような物語を嫌う今江氏のこだわりの表れだろう。
 しかし私は、そうした大人達に囲まれる「少年」(または少女)の描かれ方にもまた強く心惹かれる。

 今江文学の傑作長編のひとつ、「写楽暗殺」を例にとってみよう。

 江戸時代を舞台とするこの物語は、狂言師を目指す夕一郎少年の目で、彼を取り巻く大人達の姿が描かれる。
 写楽こと斎藤十郎兵衛を筆頭に、葛飾北斎、夕一郎の狂言の師、商人の蔦谷重三郎などなど、いずれ劣らぬ大物、大人物として素晴らしい魅力を放っている。
 そして、彼らに囲まれた夕一郎自身もまた、行く行くはそうした大人物になるであろう資質を随所で垣間見せてくれる。
 だが、夕一郎には「ヒロイズム」という言葉は似合わない。ヒロイズムどころか、頼りなさすら感じさせる少年なのだ。

 夕一郎の年齢は十歳か十一歳くらい。彼に狂言をやらせたのは、やはり狂言師である夕一郎の父親である。その父親はなぜか消息を絶っており、母親はわけを話してくれない。
 夕一郎は「一日でも早く一人前の狂言方になることができれば、それだけ早く父さんが帰ってくる気がして、稽古に励む」(41頁)という気骨を覗かせる一方で、稽古に熱を入れる理由をもうひとつ持っている。夕一郎の裏の家に住むお栄ちゃんという女の子である。
 自宅で裏庭に向かって発生練習をしている夕一郎に興味を持ったお栄ちゃんは、裏屋根からちょくちょく顔を出して、稽古を見物するようになる。
 お栄ちゃんがそうして裏屋根に現れるのを夕一郎は待ち焦がれるようになり、なかなか現れてくれないと、
「たしかにいるはずでござる。とくとさがしてみさせられい。」(46頁)
「心得た。どのあたりにいることじゃ知りぬ。」(46頁)
といったセリフを選んで大声で「稽古」を続ける。するとお栄ちゃんは笑いながら顔を出すのである。
 行方不明の父と、裏の家の女の子。夕一郎を稽古に駆り立てる二つの動機はあまりに対照的だ。物語の中にこうした明暗が同居するのは、今江文学の大きな特色のひとつである。

 夕一郎の狂言の師匠は厳しい。
「腰のいれ方が悪いとえんりょなく扇子でぴしりと打ちすえる。(略)気合をいれて思いきり打ちすえられるのだから、こらえきれずに、つんのめるようにひざをついてしまうことがある。そんなぐあいにからだが崩れることを、お師匠さまはもっときらった。かといって上体をおこすためにつっ立つようにかまえているのもおかしくて、そんなときは背中に扇子がとぶ。(略)思わずのけぞるように上体をそらしてしまう。
(略)
 あわてて腰をおとすと、これがみごとにへっぴり腰になってしまう。するともう本気に腹をたてたお師匠さまは、夕一郎の腰のあたりをつんと蹴とばしてしまうことにもなる。(略)そんな日は、家に帰って思いだしても、つくづく自分が情けなくなってしまうのだった。」
(52〜53頁)
 こうした厳しい稽古に耐える夕一郎の姿には「反骨」という言葉は不似合いだ。かと言ってただ師匠に怯えているのとも違う。「つくづく自分が情けなくなってしまう」という言葉は、もっと透明で高潔な辛抱強さを感じさせる。

 そんな夕一郎が、偶然知り合った斎藤十郎兵衛(写楽)の人柄に惹かれ、狂言の師匠に彼のことを尋ねようと決めた。しかしあの恐ろしい師匠のこと、機嫌のいい時でなければとても聞けたものではない。そのためには……
「これはもうがむしゃらにやるしかなかった。(略)夕一郎には何とかして斎藤十郎兵衛のことをきくきっかけをつかみたい思いがあったから、へこたれなかった。どなりつけられても、打ちすえられても、叱りとばされても、なんのなんの……と自分に言いきかせてやり直した。」(53頁)
 そしてついに、
「お師匠さまの扇子が一度もとばない日がつづいた。いまだ……と夕一郎は決心した。(略)斎藤十郎兵衛さまのお家はどちらかお教えいただけませんでしょうか。」(54頁)
 夕一郎のがんばりに何かあると察していた師匠は、何も言わずに十郎兵衛の家への地図を描いてくれるのである。

 ところで夕一郎がここまでがんばれたのは、実は彼自身が十郎兵衛の人柄に惹かれていたからだけではない。十郎兵衛のことを話して聞かせたお栄ちゃんも彼に会いたがっていたからでもあるのだ。
 その後夕一郎は、なかなか顔を見せない裏屋根の向こうのお栄ちゃんに向かって、稽古の声を張り上げすぎて喉を嗄らしてしまう。

 めでたく十郎兵衛とじっこんになれた夕一郎とお栄ちゃんは、彼に招かれて食事をご馳走になる。酒に酔って眠ってしまい、もたれ掛かって来たお栄ちゃんに夕一郎は困惑する。
 十郎兵衛と別れた後の帰り道、二人は刺客に襲われるが、夕一郎は勇敢にもお栄ちゃんを救い、自分もどうにか無傷で切り抜ける。
 夕一郎が母にそのことを話すと、旅支度をせよ、当分帰れないと告げられる。襲われた理由(父の失踪が絡んでいるのは明白)を察しているのに何も説明しようとしない母に、その気持ちを察した夕一郎は何も尋ねずに従うのである。

 斎藤十郎兵衛のことを、夕一郎はこんな風に慕う。
「斎藤さんはお侍で能役者で、それがいまはお江戸へ出なさって絵師修行。自分の生き方をえらんでぐいぐいと歩いていかれてる……。お侍でずっと通されても充分通る方なのに、その生き方をどこかで自分から切ってしまわれた。また、能役者としてもなかなかの方とおみうけするのに、ふつう能をやる人なら知らんぷりの狂言方のこともよく御存知。その上、自分のような未熟な修行者でも一人前に扱い、つきあって下さる。そうしたことでおこる同僚とのいざこざや噂話や中傷や……といったものには、それこそ知らん顔で生きておられる……。」(109頁)
 そんな十郎兵衛の生き様を思い、夕一郎は気持ちの滅入っている自分自身をもはげますのだ。
(そしてその十郎兵衛もただの子供にとっての英雄としてでなく、自分の絵の才能への不安と闘いながら遮二無二努力する一人の人間として描かれている。)

 お栄ちゃんは鳩の群のボスを眺めながら、離れ離れになった夕一郎のことをこんな風に思っている。
「こんな風に生きていてくれるように望んだ。もう少し図々しく、ふてぶてしく、――しかし責任をとるためにも強く大きく……。」(129頁)
 活発で物怖じしないお栄ちゃんは、引っ込み思案なところのある夕一郎を少し歯痒く感じてもいるらしい。
 お栄ちゃんがそんなことを思っている頃、夕一郎はまたも刺客に襲われる。その時の夕一郎。
「(闇と足を使うしかないな……)
(略)まず、狂言を演じるときのように、体をやわらかにやわらかにほぐしておかないといけない。やわらかくやわらかく……。(略)この風呂敷包みの中にある「やわらかな」もの――も使える……と気づいた。(略)
 灰。
(略)うまく使えば目つぶしにはなる。その間に谷を駈けおり、林にとびこめば(略)。」
(133〜134頁)
 夕闇の中、夕一郎は「まばたき三つほどの間に」風呂敷をほどき、灰の入った布袋の紐もほどき、「狂言の足のはこびで」相手に気付かれないよう、にじり寄る。そして隙を突いて一気に駈け寄り、灰をぶちまけ、一目散に駈け出して一命を取り留める。
 かと思えば、「お栄ちゃん」と呼び掛けようとして、周りの大人に気兼ねして「お栄どの」と言い直し、却ってお栄ちゃんに笑われてしまう、まだ十歳そこそこの夕一郎なのである。


 破天荒な矢吹丈・上杉鉄兵型。真面目一辺倒のアシタカ型。快活な釣りキチ三平型。魅力的な少年像にも色々あるが、夕一郎はこのどれにも当てはまらない。強いて言うなら「軟弱粘り腰型」とでも言おうか。
 こうした、強い心棒を持ちながらも、読み手に何とも言えない親近感、安心感を与えてくれる少年像は、今江文学ならではと言っていいだろう。

使用図書:今江祥智の本 第11巻「写楽暗殺」(1981年・理論社)


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