1.「兎の眼」は傑作か

99.4.23

(1)賞賛

 この作品の長所、短所を検証するにあたり、まずは「兎の眼」の優れた点を述べた代表的な評論「『まがり角』の発想」(上野瞭)からいくつか引用する。
 まずは冒頭の場面をはじめとする「教室風景」について。


 蛙を引きさいたのは、塵芥処理所で働く通称バクじいさんの孫、臼井鉄三である。鉄三はこのあと、同級生と大げんかをし、相手の骨が見えるほど爪でその皮膚を引きさく。この時は、嘔吐にとどまらず、小谷先生は即座に失神する。


従来の「教室風景」はまったく否定される。「先生」が「子ども」を前にして、どうしていいかわからないのである。このことは、「先生」というものが、「先生」であるというだけでは、じつは子どもを理解することも説得することもできないものであることを示唆してくれる。


この物語の傑出している点は、そうした事件を出発点として、小谷先生の「成長過程」をみごとに浮きぼりにしたことにある。


 また、上野は「兎の眼」を、教師ものとして有名な「二十四の瞳」(壷井栄)と次のように対比させている。


どれほど心やさしい先生であったとしても、『二十四の瞳』の大石先生は、子どもからはなれた、子どもの上に立つ、子どもの保護者的位置を占めていたことがわかる。


子どもと「先生」を対等の人間として、共に血のかよった価値ある存在として描きだしたのは、『兎の眼』にはじまるだろう。


 物語中、小谷先生が夫との生き方の違いに気付き出すことで夫婦間に亀裂が生じる。
 それについてはこのように語っている。


従来の児童文学が内包していた「子どもは人間関係復元の天使だ」という接着剤的発想はない。反対に、接着されているはずの人間関係のもろさ、あいまいさを照射する子どもの提示がある。


『兎の眼』における子どもは(略)結果として大人の既成の価値観をゆすぶり、突き崩す。しかし、子どもたちがこの物語で果している役割は、もっと大きなものなのだ。それは一口にいうと、「人間であることとは何か」「人間である以上どうあらねばならないか」というきわめて根本的な問題を語りかけることである。


 そしてこの作品を次のように総括する。


 臼井鉄三にしても、伊藤みな子にしても、小谷先生がその中に跳びこまなければ、ただの「はみだしっ子」あるいは「落ちこぼれ」人間として終わったかもしれない。それは現代社会の「ダメ人間」という蔑視の地点に取り残されたかもしれない。しかし、小谷先生は、そうした通念を押しのけて、その子ども自身と深く関わることにより、じつはそうした子どもたちこそ、じぶんに「生きるとはどういうことか」を教えてくれる可能性にみちた存在だったことを知る。子どもたちが人間の在り方に目ざめていくことと、「先生」が生き方を問い直していくことは深くむすびついているのである。

 この作品の傑出している点はそこにある。灰谷健次郎の卓越性は、そうしたものとして大人と子どもを等質に描きだした点にある。そして、こうしたすぐれた試みが、日本の児童文学の世界でなされたことに、わたしは拍手しているのである。


 この部分は、「兎の眼」の傑作たる由縁が極めて簡潔かつ的確に説明された文章と言えるだろう(「兎の眼」が傑作であるという前提に立つならば)。

 上野瞭は「兎の眼」をこのように位置付けている。


これらの作品(注:評論「『まがり角』の発想」で取り上げられた「兎の眼」を含む3作品)ほど、「現代日本の子どもの本がどこまできているか」を適切に示したものはない



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