1.「兎の眼」は傑作か

99.4.23

(2)条件付き賞賛

 一方、同じ評論の中で上野瞭は「兎の眼」のはらむ危険性を次のように指摘している。


小谷先生は新婚十日目でこの一年生の担任となり、物語の終末部では、子どもたちの生きざまに肩入れしすぎたあまり、離婚ないしは別居でもしそうな険悪な状態になる。(略)小谷先生は「そこまで」教育に打ち込んだというわけである。(略)「そこまで」行く小谷先生の姿は、作者の意図は別として、一つの危険な感動を読者に与えはしなかったか。(略)
 教育行政者にとっては、「そこまで」打ち込む先生こそ「いい先生」だと持ち上げることができる。(略)
 どうして「先生」だけが、個人のこの一回限りの生を(私生活の権利といってもいいだろう)、そんなふうに「犠牲」にする道を歩まされ、それをほめたたえられたり、当然だとされなければならないのか。


 補足しておくと、ここでは、教育に「そこまで」打ち込むこと自体が否定されているのではない。それによって教師(小谷先生)が大きく成長したことはきちんと評価されている。

 それでもなお、教育、教師のありかた(とりわけ社会的な待遇)について読者に誤った認識を植え付ける危険性を「兎の眼」が持っているという主張がここではなされている。

 つまり、「兎の眼」を最大級に評価する上野瞭ですら、この作品を手放しで誉めてはいないのである。

 次に、同様な傾向が見られる他の批評を列挙してみよう。


今江祥智「兎の眼、子どもの眼」

わたしはひたすら「ほめ」にまわった。(略)作品の欠点に気づかなかったわけではなかった。登場人物たちのひたむきな「前進」にシンドサを感じなかったわけではない。後半と詰めの「甘さ」を知らなかったわけでもなかった。(略)はたしてこんな教師群像がほんまもンかどうかといった疑問をもたなかったわけでもなかった。十七年の小学校教師生活の中で、現場のシンドさや教師たちの落ちこみを、作者(注:灰谷健次郎)が知らないわけではなかった。知っての上で、あえてこうした一種「向日性」の作品を書いた心情がわかる気がした。そして、とにかくこの本は、現場の教師たちを撃ち、子どもたちの中に斬り込み、周辺の大人たちを考えこませるだろう、それで充分、そこから何かが始まる――と思ったのだった。


74.10長崎源之助「私の読んだ本」

灰谷先生は、現場で果せなかった教育の理想を小説のかたちを借りて訴えているのかもしれない。しかし、その訴えが強いだけに、この作品が文学としての完成度を失っている原因になっているのだろう。
 だが、もしかしたら作者は文学とか、完成度とか、そんなことはくそくらえと思っているのかもしれない。自分の教育に対する、あるいは子どもに対する思いを、一ばん表現しやすい、しかも伝達しやすい形で書いたのかもしれない。
(略)住民運動がみのり、民主的解決のみとおしがみえるところで物語が終るとき、なんとなくシラケてしまう。 ここに教育論的小説の限界があるような気がしてならない。
(略)作者のエネルギッシュな意欲(この作品に対する意欲、教育に対する熱情)が、ものすごくびんびんとひびいてくる


74.11しかたしん「真に子どもの心をつかむ文学へ」

ひとつひとつのカット、章の面白さ強烈さに比し、ひとりひとりのキャラクターの面白さと魅力に比し、テーマとプロットの発展が弱い(略)


75.7松谷みよ子「新人賞選考評」

私はこの作品を読んだ時の感動を忘れることができません。あれも、これも、文句はつけられるかもしれません。それでも感動が残るのです


76.11関英雄「現代児童文学の課題」

『兎の眼』は人物の描き足りなさがあるものの、型破りの人間味豊かな教師と、学校教育の枠内では見捨てられてしまう底辺の子どもたちとの交流を描いて、感動を誘う秀作です(略)


76.10原昌「リアリズム文学における人物創造」

(略)鉄三という自閉症児の強烈な個性とともに、教育の原点を探ったすぐれたリアリズム文学であったが、どうしたことか処理場の子どもたちが移転ストに立ちあがったあたりから人物像は生気を失っていたように思う。


79.4座談会「一九七八年の児童文学をふりかえる」

『兎の目』が出たときに、ぼくは、あの作品全体には幾つか問題点を感じたけれども、あの中で、男の子がハエか何かを一生懸命分類して、少しずつ自分を取り戻していくプロセスをえがいていたようなところがあったでしょう。ぼくは、あの作品ではそこのところが一番すごいなと思ったわけです。(藤田のぼる)
※藤田は「兎の眼」に対し否定的な評論を書いており、むしろこれは「兎の眼」唯一の長所として指摘しているものとも取れる。


80.4鵜生美子「70年代の新人作家たち」

『兎の眼』あるいは『太陽の子』は、どちらかといえば子どもの世界が十分描かれてはいなかったのではないか。しかし、灰谷の姿勢は、人間へのやさしい思いやり、子どもの本音を語る点で一貫しており、その姿勢が今日の社会状況を鋭く批判し、児童文学のあり方に大きな影響を残したといえよう。


「現代児童文学作家対談7」(インタビュアー 神宮輝夫)より

神宮―大きな情熱みたいなものが、全部に流れていて、その雰囲気がはっきりと、迷いもなく、まとまって伝わってきますから。
灰谷迷いはないでしょうね。だーっといってる。それが欠点でもあるんでしょうか。
神宮―それは迫力だと思います。だから、灰谷さんの思いが、筆先から読者のハートまで流れこんでる作品だと思いますよ。欠点だとか、そこがまずいとか何とかいうよりも、灰谷さんの情熱が全体にあふれていて、ああよかったなとか、ああかわいそうだなとか、自分の情感の揺れを、そのまま持ち続けて読めます。凄い作品だなと思います。



 ここに挙げた批評や対談では、どれも「兎の眼」に欠点を認めながら、それでもなお肯定的な評価が下されている。

 これほどまでに多くの欠点を指摘されながらも高く評価された物語というのはそう見当たるものではないだろう。

 果たしてこれは何を意味するのだろうか。


前ページへ 次ページへ
「灰谷文学の是非を問う」目次へ