1.「兎の眼」は傑作か


99.4.23

(3)批判あるいは全否定

 次は「兎の眼」に対する批判的な言葉を列挙する。


「想像力の冒険 わたしの創造作法」(理論社)今江祥智・上野瞭・灰谷健次郎責任編集  河合隼雄「読むこと・書くこと」

 灰谷健次郎の心の中の小谷先生は、夫との関係においては簡単にハッピーな方に動かなかった。ここで、作品としての『兎の眼』を全体としてみると、小谷先生の夫に対しては著者の目が優しくないことに気づく。既に述べたように、著者は相当の「悪者」に対しても暖かいまなざしを向けている。ところで、作者というものは、自分の作品中のすべての人物を愛すべきではなかろうか。(略)俗人は俗人なりに、悪人は悪人なりに、その存在の根っこまで、できるかぎりかかわるのを放棄しないことを愛というのではなかろうか。


80.4座談会「児童文学70年代から80年代へ」

 村野先生をどうしてオールドミスにするのかなどもぼくにはわかりませんけれど、こっちのほうじゃ差別しないでちゃんと見ろと言いながら、別のほうには非常な差別があるんですね。(皿海達哉)


83.4藤田のぼる「僕の『現代児童文学史』ノート」

 僕は、あの作品があれ程読まれたのは、そうした《告発されたがる》大人たちの心情にマッチしたからだと思っている。

 公害の問題が象徴するように、僕らは被害者であると共に加害者にもしたてあげられているのである。こうした中では、むしろ自らが加害者であると想定する方が楽である。


87.3村中李衣「感動の向こう側へ」

 自分が偏見を抱いていた対象の価値を認めることで、自分の人としての心のありよう、矛盾をつきつめることなく、読者の懺悔は完了する。

 人としてのありよう、生き様を問う作品において、拍手を送りたくなる、強い感動を覚えた、ということを果たして読者の最終的な到達点としてよいのであろうか。

 周知のように、『兎の眼』では、処理場の子どもたちが善で、子ども弱者をとりまく大人社会が悪として描かれている。恐らく、読者もこの対置構造に異論をもたなかったはずだ。

 皮肉をこめていうならば、『兎の眼』の場合、“すりかえの方程式”と“二極分化の構造”によって生まれた灰谷流饒舌が、読み手を作中人物にべったりと寄り添わせてしまった。


ひこ・田中「『兎の眼』の眼」

 鉄三は小谷先生の努力によって、学校の求める文明人になり、学校の子どもとなる。そして、学校の側にとってみれば、「名まえをおぼえる」「文字をおぼえる」「実験」「研究」「観察」「清潔化」と言う学校のお薦めシステムは、お薦め通りに社会の役に立つ(ハム工場のハエの異常発生を防ぐ)子どもを学校は育てることが出来ると言う証明であり、学校の存在意義を高める結果となる。小谷先生はそのために奔走する。そして奔走する過程によって新任教師小谷先生も又、鉄三と共に学校人となる。


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