1.「兎の眼」は傑作か

99.4.23

(4)各批判の妥当性

 ここでは(1)〜(3)で挙げた賞賛と批判の中から、対比できるものを並べ、その妥当性を検証してみようと思う。


(i)「兎の眼」はいかなる感動を与え得るか

賞 賛

批 判

 臼井鉄三にしても、伊藤みな子にしても、小谷先生がその中に跳びこまなければ、ただの「はみだしっ子」あるいは「落ちこぼれ」人間として終わったかもしれない。それは現代社会の「ダメ人間」という蔑視の地点に取り残されたかもしれない。しかし、小谷先生は、そうした通念を押しのけて、その子ども自身と深く関わることにより、じつはそうした子どもたちこそ、じぶんに「生きるとはどういうことか」を教えてくれる可能性にみちた存在だったことを知る。(上野)

 わたしたちは、この長篇世界をくぐり抜けるとくぐり抜けないとで大きく違ってくるだろう。(略)「人間の内なる可能性の世界」の発見につながるだろう。(上野)

 自分が偏見を抱いていた対象の価値を認めることで、自分の人としての心のありよう、矛盾をつきつめることなく、読者の懺悔は完了する。
(略)
 このすりかえ装置に気づかなければ、作品を読み終えた時、現実場面へ持ち帰って新しい生活を創ろうとするエネルギーは、生まれ得ないだろう。(村中)

 僕は、あの作品があれ程読まれたのは、そうした《告発されたがる》大人たちの心情にマッチしたからだと思っている。(藤田)

 公害の問題が象徴するように、僕らは被害者であると共に加害者にもしたてあげられているのである。こうした中では、むしろ自らが加害者であると想定する方が楽である。(藤田)


 右の批判はいずれも作者の伝えたかったこと「そうした子どもたちこそ、じぶんに『生きるとはどういうことか』を教えてくれる可能性にみちた存在だった」という読み取りが欠如しているように思われる。

 村中は評論の冒頭でこうも述べている。
「自分はずるかった、卑怯だったとい告白し、その罪を認めることは、(略)我身を切り刻まずにすむ、最良の方法なのである。」

 この時点で既に「兎の眼」への読み違いがあると私は考える。

「自分は間違っていた。ゴメンなさい。」そんな感想を灰谷は読者に求めているだろうか。

 今まで見落としていたものを見出し、そこから自分を変えてほしいというのが灰谷の願いに他ならないのではないか。小谷先生の成長がそれを何よりも雄弁に物語ってはいないだろうか。

 それを読み取ることができたがどうかが「兎の眼」への評価の分かれ目となっているように思う。

 この点について「兎の眼」を批判するとしたら、作品の本質(作者の伝えたいこと)が読み手によっては伝わり辛い(つまり語られ方に難がある)といったものが妥当なのではないか。

 しかしこの村中、藤田の批判は読み違いの危険性の指摘ではなく、作品の本質的な部分への批判として書かれた(しかも本質を見誤っていると私は見ている)ものである。

 上野は小谷先生の成長をこのように説明している。

 小谷先生は、今や塵芥処理所の子どもたちとおなじ気持ちになっている。人間として一生懸命生きているのに、それを「くだらん仕事」といい切る差別的発想(略)にむかって小谷先生は憤りを感じているのだ。(略)蛙の内臓に嘔吐した時点から、そこまでじぶんを推しすすめている。こうした「成長」はすべて子どもと関わったことから生まれたものである。

 村中の評論の別の箇所にも少し触れてみよう。


賞賛

批判

 私はこの作品を読んだ時の感動を忘れることができません。あれも、これも、文句はつけられるかもしれません。それでも感動が残るのです。(松谷)

 人としてのありよう、生き様を問う作品において、拍手を送りたくなる、強い感動を覚えた、ということを果たして読者の最終的な到達点としてよいのであろうか。(村中)


 右の村中の言葉は、左の松谷の言葉に対する直接の反論である。

 私はこの反論に対し、松谷の言う「感動」がどういった種類のものかを確認せずに薄っぺらなものと断定して反論するという軽率さを感じる。

 確かに「兎の眼」に対し「感動した、泣いた」といった薄っぺらな感想を述べる読者は少なくないだろう。

 そこには物語に込められたメッセージを真摯に受け止め、自分の糧にして行くという姿勢は微塵もなく、ただ感情を揺さぶられる甘美さを味わうだけでよしとする怠惰な発想が見える。

 村中は「兎の眼」をこの種の感動しかもたらさない物語とし、同時に松谷の感想をこの種のものとして解釈したものと思われるが、果たしてそうだろうか。

 私の考えでは、松谷の言う「感動」はそのような軽薄なものとは全く違う。

 その理由は「あれも、これも、文句はつけられる」という言葉に集約されている。そこにはこの作品を支持しつつも欠点を見通す批評眼が感じられるからだ。

「文句」の中身が、他の評者が指摘するような人物描写の甘さであったり、物語の練り足りなさであったりするなら、それは「兎の眼」の全否定にはなりえないだろう。

 そういった欠点を持ちながらもなお読者を深く胸打たすにおかない何かがあるということを松谷は言いたかったのではないか。

 村中の言葉を借りるなら「人としてのありよう、生き様」に対し影響力をおおいに持ちうる作品であるというのが松谷の言葉の真意なのではないか。

 村中の反論には、松谷の言う「文句」の中身の履き違えがあるというのが私の結論だ。


(ii)ハエ実験の成果やいかに

賞賛

批判

 男の子がハエか何かを一生懸命分類して、少しずつ自分を取り戻していくプロセスをえがいていたようなところがあったでしょう。ぼくは、あの作品ではそこのところが一番すごいなと思ったわけです。(藤田のぼる)

 鉄三は小谷先生の努力によって、学校の求める文明人になり、学校の子どもとなる。そして、学校の側にとってみれば、「名まえをおぼえる」「文字をおぼえる」「実験」「研究」「観察」「清潔化」と言う学校のお薦めシステムは、お薦め通りに社会の役に立つ(ハム工場のハエの異常発生を防ぐ)子どもを学校は育てることが出来ると言う証明であり、学校の存在意義を高める結果となる。小谷先生はそのために奔走する。そして奔走する過程によって新任教師小谷先生も又、鉄三と共に学校人となる。(ひこ・田中)


 田中の指摘するように、鉄三への教育の評価を、「社会の役に立つ」という成果によって結論付けるという展開は難があったかも知れない。

 鉄三自身の解放や成長の証としては確かに弱い。的外れと言ってもいいだろう。

 しかし、とこの批判に対しても私は疑問符を付けたくなるのだ。

「名まえをおぼえる」「文字をおぼえる」「実験」「研究」「観察」「清潔化」という鉄三の変化は、果たして生徒を「学校のお薦めシステム」に閉じ込めるというだけの評価に留まってしまうようなものだろうか。

 私は、ハエ実験を通しての内面の変化が、鉄三の自立の第一歩として賞賛されてしかるべきだと考える。

 物語では、社会の役に立ったということを鉄三の成長の到達点であるかのように描いてしまったことで焦点がぼけてしまったということは言えるだろう。

 しかし物語で述べられる鉄三の変化はそれだけではない。自制心が芽生え、言葉を話し、表情も豊かになって行くといった変化も随所で描かれている。

 ここではあくまで、そうした変化を描写することによってのみ教育の「成果」を表すべきだったように感じられる。

 私の意見としては、ハエ実験による鉄三の変化はやはり「すごい」と思うのだ。


(iii) 小谷先生と夫の間の亀裂について

賞賛

批判

 従来の児童文学が内包していた「子どもは人間関係復元の天使だ」という接着剤的発想はない。反対に、接着されているはずの人間関係のもろさ、あいまいさを照射する子どもの提示がある。(上野)

 灰谷健次郎の心の中の小谷先生は、夫との関係においては簡単にハッピーな方に動かなかった。ここで、作品としての『兎の眼』を全体としてみると、小谷先生の夫に対しては著者の目が優しくないことに気づく。(略)作者というものは、自分の作品中のすべての人物を愛すべきではなかろうか。(河合)


 物語の中で、小谷先生は子供達との関わりを通して自分の生き方を見つめ直して行くうちに、夫との生き方の違いを意識し始める。

 その部分に対する賞賛と批判である。

 小谷先生の気持ちは、精神的な成長ゆえに夫から離れてしまう。

 児童文学において夫婦間の亀裂が、ある意味肯定的に描かれた物語というのは殆ど前例がないだろう。

 平穏な生活を単純に望む夫と、子供達と真摯に向き合うことで自分の生き方を根本から探る小谷先生。こうした隔たりによって夫婦関係が崩れるという展開は非常に含蓄に富んでいると言っていいだろう。

 しかし夫の気持ちをわかろうともしない、歩み寄ろうともしない、浅はかさを許そうともしない小谷先生の態度の描かれ方が、やや性急であり乱暴であるのは否めないところ。

 上の評価は双方妥当であると言えるのではないか。

 灰谷自身はこの問題についてこう語っている。


「現代児童文学作家対談7」(インタビューア 神宮輝夫)

 いちばん指摘されるのは、「小谷先生の夫婦関係がけしからん。どないしてくれるんや」ということです。これはずいぶん言われました。(略)
 しかし、『兎の眼』を、私が欠点の多い作品だと言ったのは、そこらあたりも多少あると思います。(略)どうにもならない人の悲しみを書きながらつっぱねるのはかまわないけれども(略)小谷先生の夫婦関係をとってみれば、夫の側の視点がありませんでしたからね。だからそれは、両者ののっぴきならない悲しみではないから、そこが浅いという指摘として受けとれば、その批判はわかると。


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