細切れコラム1


オトナのサウンド(2001.7.16)
 ライブハウスで配られた情報誌「Flyer」(2001.7)に載っていた「リブレ」のレビューに、アルベルトのこんな主旨のコメントが載っている。
「3人になって、今まで隠れがちだったギターを前面に出してみたら、結果的に大人のサウンドになった。」

「子供騙しでない本物のサウンド」という主旨はわかる。だが私は「大人の音楽」「大人のサウンド」といった言い方があまり好きではない。
 こうした言い回しには、子供に上質のものを与えていないという背景が前提としてある。「子供にはガラクタを与えておけばいい」といった子供文化の貧しさの責任は間違いなく大人の側にあるわけで、そこをなおざりにして「大人の○○」といった言い方をするのは、ちょっと違うのではないかと思うのだ。

「優れた童話は一生楽しめる」と語る今江祥智。
「大人が食べたくなるようなお子様ランチを作るべし」と語る上野瞭。
「真に子供のために作られた映画は大人の鑑賞に耐える」と語る宮崎駿。

 もちろんディアマンテスは子供文化に寄与することを目指しているわけではないから、上の3人と同じことをする必要は全くない。けれども、そうした世界をないがしろにしているように受け取られかねない言い回しは、できることならしてほしくないと思う。
 究極的には音楽の評価は優れているか優れていないかだ。そこに大人だ子供だと、差別的とも思える基準を持ち込むことはないのではないか。(背伸びしたがる聴き手の心理をくすぐる意図でもあるのかも知れないが。)

 一方、聴き手が「大人の音楽」といった感想を述べると、「俺は大人の音楽のわかる成熟した大人だぜ、ヘッヘッヘ」といった厭らしさを感じることがある。
<「リブレ」以降のアルバムを好むのはオトナで、それ以前のアルバムを好むのはコドモ>なんて意識がファンの間に蔓延するようになったらやだなあ。


ターボが見えない(2001.7.15)
 7月13日、渋谷クラブクアトロにてライブ。メンバー脱退後、ソロライブには何度か足を運んだが、ディアマンテスとしてのライブに行ったのは初めてだ。
 開場前に立ち寄った中古CD店でシングル盤「魂をコンドルにのせて」を10円で入手。幸先よし。別の店に行ったら同じCDを今度は50円で入手。幸先よし。
 ライブ会場に隣接した2件の店なのに、なぜ他のファンに先を越されなかったのか不思議だ。

 ライブハウスでは幸いにも椅子を確保。柱が邪魔で舞台全体が見渡せないのは残念だが椅子にはかえられぬ。数少ない備え付けの椅子には殆ど「Reserved」の立て札。これ、どうやってReserveするのだろう。柱が邪魔で視界の悪い席のみ開放されている。ターボの姿が全く見えない。

 ニューアルバム「リブレ」を全曲演奏というプログラムから彼らの自信のほどが伺える。圧巻だったのは「VIENTO GITANO」ラストのアコースティックギター(アルベルト)とエレキギター(ターボ)の掛け合い。この時ばかりはターボの姿が見えなかったのが悔やまれる。この曲の間くらいは立って場所を移動するんだった。
 おしゃべりタイムのアルベルトのターボいじりはもうすっかりおなじみ。渋みのある風貌や曲想からは想像も付かぬ内気さ。とにかくしゃべらない。ぜひ一度彼にメインボーカルを受け持ってほしいものである。
 ライブハウスの雰囲気はどうも苦手で入り切れぬ部分もあったものの、質の高い唄と演奏は楽しめた。中盤で唄われた「CELESTE」や「INVITATION」といったゆったりした曲の時に雰囲気がやや散漫に感じられたのが少し残念だったが、ライブハウスで期待されているものを考えれば仕方のないことかも知れない。ラストのバラード「リブレ」は素晴らしかった。

 ライブ後のオフ会は結局参加者12人に膨れ上がる。週末にもかかわらず3人もの飛び入りを受け入れてくれた店には感謝しているが料理はまずかった。やはり天狗あたりが無難か。安く上げるには王将でもいい。
 どうもディアマンテスのオフ会ではいい店に当たらない。去年の日比谷でも、料理の出される間隔がやけに長くて会が間延びしてしまったし、サワーは薄くて飲めたものじゃなかった。幹事は何をしとるのか。って俺か。
 幹事といっても、店の予約だけして後は勝手にどうぞというやり方だから楽なものである。却って周りの人達が気を使って会費を余分に払ってくれたりする。余ったお金は私の懐に入って来るわけで、恐縮することしきり。実はそれが狙いでいつも幹事を買って出ているのだ。ウソウソ。

 お次は9月22日の日比谷コンサート。ライブハウスは苦手でも、日比谷野外音楽堂の大らかな雰囲気は好きなのだ。
 アンコールの「風の道」で歌詞を間違えたアルベルトに乾杯!


アルベルトのギター歴(2001.7.14)
 朝日新聞のコラムにはギターを習い始めたのは8歳とあり、96年に出版されたパンフレット「Diamantes」には6歳とある。正しいのはどっち?
 どうでもいいことのような気もするが、ここはどうでもいいことを書くページだからよしとしよう。いや、どうでもよくないことも書くが。


芯が欲しい(2001.7.13)
 朝日新聞にアルベルトの記事が載っている。7月5日に始められた連載で、どうやら毎週木曜日に掲載されるようだ。
 第2回に当たる12日の記事に興味深い記述があった。
「すごくいいものを持ってるけれど、何か一つ芯が欲しい」
 これはアメリカのミュージシャンによるディアマンテス評である。生意気なようだが、実は私もそう感じていた。
 たとえば同じロックバンドのゴダイゴや、ディアマンテスが何曲かカバーしているジプシー・キングスなどに比べ、彼らの音楽は(不遜を承知であえて言うが)「これぞディアマンテス」という完成された世界には至っていないように思うのだ。演奏能力の優劣といったこととは別の次元で。
 それでもこの3つグループの中で一番好きなのはディアマンテスなのだが。なんのこっちゃ。

 ディアマンテスが持つべき「芯」とは一体何だろう。
「アルベルトの声はアコースティックの伴奏の方が映える」という意見を耳にしたことがあるが、今のメンバーを考えたら、それを言っては身も蓋もない。したがって却下。(最近のソロライブやCD「リブレ」を聴いた限りでは、エレキギターと歌声が喧嘩しているような印象は受けない。)
 また、私は「琉球音楽とラテン音楽の融合」という結成時の個性を伸ばすことに期待したかったが、それはアルベルトが今目指しているものとは違うということが12日の記事で明らかになった。したがってこれも却下。

 正規メンバー3人という身軽さゆえ、ディアマンテスの活動は今後多様さを増して行くにちがいない。その積み重ねはいつか必ずや実を結ぶことだろう。その過程も含めてディアマンテスを楽しんで行きたい。
「エンターテインメントとしては沖縄のバンドで最強」という自負に加えて、「音だけで勝負するチャンス」という前向きさ。頼もしい限りである。


「勝利のうた」を入場テーマに(2001.7.12)
 沖縄出身の名護明彦というボクサーが「勝利のうた」を入場テーマ曲に使ったことがあるという。この曲をぜひ入場テーマ曲に使ってもらいたいプロレスラーがいる。プロレスリング・ノアの小橋建太だ。

「勝利のうた」は、笑っちゃうくらいにまっすぐな歌だ。
「生きてる喜び感じよう」「信じる心失わないで」
 こんな歌詞、フツウは作れない、唄えない。しかし作ってしまった、唄ってしまった。紛れもない名曲だ。こうした「笑っちゃうくらいにまっすぐな歌」にこそディアマンテスの真骨頂があると私は思っている。

 そして小橋建太もまた笑っちゃうくらいにまっすぐな人なのだ。彼は「熱き握り拳」なる、これまた笑っちゃうような題の自伝を出版している。内容もまた「諦めずに頑張ればきっといつか……」といった、笑っちゃうような言葉のオンパレード。フツウに考えれば、こんなにつまらない本はない。しかし、彼が心の底からそう思い、読者ひとりひとりへの精一杯の励ましの気持ちでもって綴っていることがひしひしと伝わって来るがゆえ、一気に読まされ、胸打たれてしまう。そういう本なのだ。
 彼自身、まさにそういう姿勢でもってトップレスラーへと這い上がって来た。笑っちゃうくらいにまっすぐな人、そして紛れもない名レスラー、それが小橋建太なのである。彼ほど「勝利のうた」の似合う人がいるだろうか。

 今、小橋建太は長年のハードな試合の積み重ねで「80歳の老人のような状態」にまで悪化してしまった膝の治療で長期欠場しており、年内復帰は絶望的。復帰しても、かつての強さを取り戻せるかどうか危惧する声も少なくない。
 それでも小橋は「信じる心失わないで」リハビリに励む。まだ「ヤクルト1本分程度」しかジャンプできないという。前途多難という他はない。しかし小橋はがんばり続けることだろう。「Hay mucho por hacer」――そう自分に言い聞かせながら。 プロレスリング・ノア Official Homepage


ワタシを見て〜(2001.7.11)
 ホームページを作ったらとりあえず自己紹介というパターンはいかにも安直だ。そのくせ人のサイトを見る時はなぜか自己紹介のページを最初に見てしまう。なんのこっちゃ。癪だがひっそりやっておこう。
出身地/現住所 横浜市/横浜市
ファン歴 1995年から かな
ライブに初めて行ったのは1998年
好きな
ミュージシャン
ディアマンテス
マドレデウス(マドレデウスの部屋参照)
好きな作家 今江祥智
特徴 オフィシャル掲示板で時々暴れる
メーリングリストでも時々暴れる
ライブでは暴れない踊らない唄わない
お祭り的に楽しむよりもじっくり聴くのを好む


ディアマンテスに嫌悪感(2001.7.10)
 開設した先からしゃかりの話題ばかり。いい加減ディアマンテスのことを書くとしよう。物騒なタイトルを付けてみた。
 発売されたばかりのアルバム「リブレ〜自由〜」はかなり気に入っている。新生ディアマンテスの充実ぶりをうかがわせる完成度だ。
 だが気になることもある。「BE MY SWEET」と「MU-CHA-CHA-CHA」の日本語バージョン、この2曲を聴いていると、なんとも嫌な気分になるのだ。いや、曲はいい。とてもいい。問題は高柳恋なる人物による歌詞だ。全編に漂う説教臭さといい、上滑りの言語感覚といい、言い訳じみたフレーズといい、ディアマンテスの音楽を貶めているとしか思えないのだ。私はもともと歌詞をさほど気にして聴くたちではないが、それでも気になる。
 ディアマンテスの曲の中には当然好きな曲もあればそうでない曲もある。だがはっきり嫌悪感を覚えたのは初めてのことだ。それがアルベルトの作詞でないのが救いと言えば救いである。繰り返すが、曲はいいのだ。

「BE MY SWEET」より
 駆け引きさえ知らない子供に戻って
→子供をただ汚れのない無垢なものとして一括りに捉えるのはいかにも浅墓だ。
「子どもは人間の素晴らしい原型」とは灰谷健次郎の弁。だが同時にこうも言う。「感受性が鋭い故に、悪なるものを模倣しやすいし、卑俗な価値観も身につける」。よくも悪くも本性剥き出しなのが子供というべきであろう。
 子供はキレイで大人はキタナイ。なんと安直な発想だろうか。自分の目で見て築き上げた価値観でないのは明らかで、陳腐な一般論をさも自分の言葉であるかのように使う。これでは詩とは言えない。

 常識は誰かが決めたルールさ
→親子のこんな会話が聞こえて来そうだ。
「あなたは非常識だ」「常識は誰かが決めたルールさ」
 もし自分の子供がこんなこと言ったら張り倒すな。いや、体罰はまずいか。
 既成の価値観に囚われるなという主旨はわかるが、言葉の選び方があまりにお粗末。

「MU-CHA-CHA-CHA」より
 難しいことは100にちぎって海に流して〜
→頭の悪さを武器にするやつって嫌い。
 その心は「自分に都合の悪いことは100にちぎって海に流して〜」。

 理由をみんな 大事にしすぎてた
→頭の悪さを武器にするやつって嫌い。
 その心は「道理をみんな 大事にしすぎてた」。大事だろうに。
「みんな」という言い方も傲慢だ。「みんな」はそうだが「僕」は違うということだろう。

 踊る君の眩しい腰 絡みつく視線
→視点(主体)がバラバラ。
 前半は女の子を見ている「男」の目だが、後半は「男」でも「女」でもない第三者の目。「腰」に視線を送る「自分」はどこへ行ったのだ。

「MU-CHA-CHA-CHA」はファンの間ではスペイン語バージョン(アルベルト作詞)の方が好評のようだし、私もそう思う。曲のリズムにピタリとはまっているし、内容も女の子の尻を追い回す男の心情“のみ”が“率直に”綴られている。アルベルトは言い訳はしない。
 だが先日の沖縄でのライブで唄われたのは日本語バージョンとのことである。


言葉より心?(2001.7.8)
 しゃかり「言葉のかわりに」の歌詞で気になる箇所がある。「言葉のかわりに心の歌を」というフレーズだ。ということは題そのものも気になるということになるのだが。
 この歌詞を読んで感じたのは、「言葉に乗せて心を伝えるのが歌というものではないのか」という疑問である。
「なんて皮相な捉え方を」と嘲笑されるかも知れないし、もしかしたらその通りかも知れない。しかし、誰よりも言葉を大事にしなければならない人が、言葉を否定するのをさも美しいことであるかのように唄ってしまうことに抵抗を覚えずにはいられない。言葉でもって言葉を否定するという矛盾。堂々巡りで、行く着く先には何もないのではないか。
 恐ろしく無粋なことを言っているような気がしないでもない。「あなたはあの詩から何も“感じ”ないのか」という声が聞こえて来そうだ。まあ待ってくれ。

「言葉より心」という使い古されたフレーズがある。困ったことに、こういう言葉を口にするのは大半が言語感覚に欠けた人である。つまりは逃げ口上。そこにあるのは言葉を搾り出す努力を惜しむ不誠実さにほかならない。礼儀をわきまえぬ者に限って「形より心」などと言い訳するのと同じである。一体どこに「心」があるのだと言いたい。
 もちろん千秋が言語感覚のない不誠実な人だなどと言う気は更々ない。このアルバムの中の歌詞を読めば、彼女がそんな人間かどうかはすぐにわかる。

 なにも饒舌になれと言うのではない。沈黙が多くを語ることがあるのも否定しない。だがそれでも、言葉にならない気持ちをどうにか言葉にすること、雫のように言葉を搾り出すことの大切さは決して否定されるべきものではないと思うのだ。
 こう反論する人もいるだろう。「だからその“雫”のように搾り出した言葉を綴ったのが“心の歌”なんだよ」と。そこに異論はない。だが、それならなぜ「言葉のかわりに」などというフレーズが……とまた話は振り出しに戻ってしまうのだ。メビウスの輪。

「言葉のかわりに心の歌を」というフレーズから読み取るべきは「深さ」なのか、それとも「破綻」なのか。「理屈では割り切れない真実」などともっともらしく言う人もいようが、これまた私には言い訳に聞こえる。「割り切れないと判断を下せるほどあなたは深く考えたのですか。」
 この歌詞が駄作とまでは思わない。だが「言葉のかわりに」というフレーズだけはどうにも引っ掛かるのだ。しかもこれが歌の題になり、更にはアルバムの表題にもなってしまっている。
「言葉より心」「考えるより感じろ」
 こうした陳腐な言い逃れにほとほと嫌気がさしている私にとっては、この曲の歌詞はすんなりと受け入れられるものではないのだ。

 我ながら理屈っぽさは否めない。だがこれは理屈でもってのみ言うのではない。あくまで「引っ掛かりを“感じた”」ことが立脚点である。旋律と歌声の心地よさに身を任せ、その引っ掛かりから目をそらすのを私は潔しとしないだけだ。


しゃかり(2001.7.7)
 93年から97年までディアマンテスのコーラスなどを受け持っていた千秋のユニット「しゃかり」が99年に発表したファーストアルバム「言葉のかわりに」(ajima-2005)を聴いた。
 ディアマンテスを初めて聴いた時は、コーラスという地味なポジションになぜこんなにうまい歌い手がいるのかと驚かされたものである。
 十代前半から歌手として盛んに活動していたという千秋だが、このアルバムでもさすがに、透き通って伸びやかな素晴らしい歌声を聴かせてくれる。その才能は間違いなく一級品と言えるだろう。旋律も魅力的だ。シングルCDが立て続けにヒットしているというのも頷ける。

 誉め言葉はどうも上滑りになりがちで、己がボキャ貧が恨めしい。魅力的なユニットなのは間違いないのだが、誉め言葉を捜すのは諦めて、気になった点をいくつか挙げてみよう。スマン。

「旋律も魅力的」と書いたが、短いフレーズを何度も繰り返す曲の多さが気になった。その繰り返しが効果的というのならいいのだが、むしろ一本調子な印象を受けた。出だしから聴き手を惹き付けるが、その後の広がりが希薄に感じられるのだ。
 アルバムとしてもやや単調な感がある。いい曲が揃っているのに、メリハリを欠く構成ゆえに、1曲1曲が生きて来ない。全曲メジャーコードというのは驚きだが、これは意図されたものなのかどうか。

 伴奏に関しても不満が残る。ライブではどんな編成なのか知らないが(ギター1本?)、このアルバムでは悪い意味でポップス的になっているように思う。
 お座なりのリズム音は旋律の美しさを削いでいるように感じるし、シンセサイザーも鳴らしすぎ。涼しげな音を積極的に使っているが、千秋の声や曲が元来持っている清涼感を却って安っぽく染め上げてしまっているように思えてならない。
 特に「きっと」や「それぞれの唄」のようなゆったりした曲では、たっぷり聴かせてほしい千秋の声に重なるシンセサイザーの音は耳障りですらあり、いっそアカペラにしてくれないかとさえ思ってしまう。千秋の声を生かすには、伴奏はとことん控え目でいいのではなかろうか。
 千秋の声は単に艶やかできれいというだけではなく、「しなやかな強さ」とでも言うべきものがある。それが際立つような曲作り音作りが求められるように思う。一歩間違えれば「癒し系」呼ばわりされ兼ねない危うさが、このアルバムにはある。

 表題曲「言葉のかわりに」の歌詞についても言いたいことがあるが、長くなるので別枠に。

 随分と難癖を付けてしまったが、こうして聴き手に多くを語らせるのも千秋の歌声の力ゆえと言うこともできよう。広く長く支持され得るアルバムとは言い難いけれども、今後を期待させる一枚であることは間違いない。


徳川家康さん(2001.7.6)
 本人と言葉を交わす時は別にして、作家、スポーツ選手、ミュージシャンなどの名を「さん」付けで書くのを私は好まない。「徳川家康さん」などと書くのと同じような違和感を覚えるし、却って馴れ馴れしく感じもするからだ。
 だが相手がディアマンテスのメンバーとなると少々ややこしい。私に限って言えば、彼らと面識はないがネット上で言葉を交わしたことはある。また、面識のある人達から彼らのエピソードをあれこれ聞かされることもある。
 つまりファンにとって彼らの存在は中途半端に「近い」のだ。さん付けでは馴れ馴れしく、さりとて呼び捨てで書くのも気が引ける。彼らの目に触れる可能性の強いオフィシャル掲示板ではさん付けで書くようにしているが、それ以外の場所ではいつも困るのだ。さん付けで書けばなにやら体がムズムズし、呼び捨てで書けば失礼に当たるのではないかと、どちらにしても頼りない気分になる。
 そこにこのサイト開設である。私はますます困り続けることだろう。
 やいアルベルト、どうしてくれる。わ〜ごめんなさいごめんなさい。

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