細切れコラム2


しゃかり:和製マドレデウス3(2001.8.14)
期待する相違点1:普遍性と今日性
 マドレデウスの音楽は100年経っても廃れないと私は思っている。だがしゃかり(あるいは千秋)はそうではないだろう。だからどちらが上だとかいう話をしているのではもちろんない。私が言いたいのは、流儀も役割も異なるのではないかということだ。
 マドレデウスの音楽は、作り手や歌い手の人生というものを感じさせない。あるバイオリニストが「音楽とは神と人を繋ぐもの」と語っているが、マドレデウスの音楽はまさにそうした普遍性を感じさせるものだ。
 一方の千秋はどうだろう。先に述べたように、「艶やかで人間的なバイタリティーに満ちた声の持ち主」と私は思っている。つまり我を排して普遍的な世界を唄うよりも、自分自身の歩みとしての「歌」を唄うタイプだと思うのだ。だからこそ今この時代の聴き手の強い共感を得る可能性を持つ。私の言う「今日性」とはそういうことだ。しゃかりオフィシャルサイトから言葉を借りて「等身大」と言ってもいい。彼女には良い意味で「我」を出して唄ってほしいと思う。「神と人」ではなく「人と人」を繋ぐのが千秋の歌なのではないか。

期待する相違点2:「陰」のマドレデウスと「陽」のしゃかり
 マドレデウスの曲はどれも哀しい。「悲しい」ではなく「哀しい」。そこにはじめじめした感傷は微塵もない。かといって悲観主義でもないし虚無主義でもない。世俗的な喜怒哀楽全てを取り去ることで浮き上がる根源的な哀しみ。苦悩と絶望を全て飲み込んだ者だけが掴み取ることのできる歓喜と希望。マドレデウスの音楽は、喜びと同量の苦しみが常に聴き手の胸を刺し貫く。
 苦しみを唄うなら解放への希求を込めねば愚痴や感傷にしかならないし、喜びを唄うならそれを獲得するまでの苦しみを込めねば能天気なだけの音楽になるだろう。虐待された歴史を持つ民族の音楽ほど底抜けに明るいのは興味深い。
 負の情念をえぐり出し、そこから光明を見出す「陰」の音楽がマドレデウスなら、しゃかりには希望や喜び、前向きな願いを真正面から唄う「陽」の音楽を期待したい。沖縄という場所で自然に生まれる音楽はそういうものだと思うからだ。
 もちろん光があれば必ず影がある。マドレデウスに「陽」があるように、しゃかりにもまた「陰」が必要なのは言うまでもない。そうした二面性を持たない音楽が真に人の心を打つことはないだろう。しゃかりのデビューアルバム「言葉のかわりに」からは、残念ながらそうした「陰」を感じ取ることはできなかった。しゃかり結成当初、ディアマンテスのファンから「千秋さんじゃない」と言われた(らしい)原因のひとつはそこにあるのではないか。

期待する類似点:音の調和
 音楽に調和が求められるのは当たり前と言えば当たり前だが、類まれな女性ボーカルに地域性という共通項を持つ沖縄のこのユニットを見るにつけ、大味な音作りはあまりに惜しいと思う。
「完全な調和」とまで言われるマドレデウス。それをしゃかりにも……と願うのに大した根拠はない。「マドレデウス“みたいな”グループが日本にもあればなあ」と、それだけだ。
 もちろん「マドレデウスみたいなのをやって下さい」などと不躾なことは言わない。だが、しゃかりのあるべき姿が<偶然>マドレデウス“みたい”だったらとても嬉しい。
 地域性を重視するなら、やはりアコースティック中心になるのではと私は勝手に思っている。今のマドレデウスはクラシックギター2台にアコースティックベース(ウッドベースではない)、シンセサイザーという編成だ。何となくしゃかりにも合うような気がする。<偶然>そうならないだろうか。(もっとも編成が同じがどうかなど、この際どうでもいいことではある。)
 今の編成のマドレデウスなら、まずは「風薫る彼方へ」(TOCP-50326)をお聴きあれ。初期の編成(しゃかりのイメージとはかけ離れてしまうが)ならば、地域性を期待するなら「海と旋律」(TOCP-7539)、普遍的世界を期待するなら「陽光と静寂」(TOCP-8260)がいいだろう。その中間に位置するのが「アインダ」(TOCP-8604)だ。マドレデウスについて詳しく知りたい方は当サイトの「マドレデウスの部屋」を参照されたい。
 しゃかりを語るつもりがマドレデウスで締めくくってしまった。「和製マドレデウス」というタイトルといい、しゃかりに対してえらい失礼なコラムになってしまった。スマン。いつの日か、逆にマドレデウスが「ポルトガル製しゃかり」と言われるくらいにしゃかりが躍進することを期待しよう。と無理やりフォローして(了)


しゃかり:和製マドレデウス2(2001.8.13)
 続いて双方の相違点から、しゃかりの抱える落とし穴を検証してみたい。

相違点:成り立ち
 ペドロ・アイレス・マガリャンエスが「ポルトガルの風景を表現すること」と「民俗音楽と室内楽の融合」を狙いに結成したのがマドレデウスである。
 そのために必要な楽器は何か――とでき上がったのが、ギター、アコーディオン、シンセサイザー、チェロという前代未聞の編成である。奇を衒ったわけでなく、クラシックの要素はチェロ、民俗音楽はアコーディオンと、それぞれ明確な理由があってのものだ。(リズム楽器はない。あっても成り立つ曲もないではないが、楽曲としてプラスにはならないだろう。)
 そして驚くべきことに、マドレデウスの顔とも言うべき稀代のボーカリスト、テレーザ・サルゲイロの加入は一番最後であった。つまり、まず構想があり、それに必要な楽器、必要な歌い手を揃えるという順序。「はじめに曲ありき」なのだ。
 編曲でもそれは顕著で、特に初期の曲にはシンセサイザーを一体どこで使っているのかわからないくらい控え目な使われ方をした曲が少なくない。「あるから使う」というやり方は決してしないのである。

 一方のしゃかりはどうか。
 あくまで私の推測だが、「千秋という歌手をどう生かすか」がこのユニットの出発点なのではないか。つまり曲や楽器編成は後付け。その通りだとしたら、マドレデウスと全く逆である。
 もちろんマドレデウスの順序が「正し」くて、しゃかりが「誤り」だなどと結論付けるのは早計というものだ。ある楽器(声)を得ることで、作曲者自身が気付かなかった己の可能性を発見することもあるからだ。ディアマンテスにしても「やってみたらうまく行った」という面が多々あると言われているし、マドレデウスの作曲者だって、テレーザの声から新たなインスピレーションを少なからず得ているはずだ。

 しゃかりのような成り立ちのグループ(ユニット)が成功するために不可欠なのは、曲が歌手を育て、歌手が曲を育てるという相乗効果だろう。逆に懸念されるのは、お互いがお互いを縛り、押さえ付ける不幸な結び付きになってしまうことだ。もし「千秋はこういう歌手であり、しゃかりの音楽はこうあらねばならない」という枠に囚われ、その枠に“迎合”する格好で曲が作られ、唄われるようになってしまったとしたら、しゃかりに未来はないだろう。
 今のしゃかり(といってもデビューアルバムしか聴いていないが)には、「千秋のための曲」という前提は必要ないのではないか。ひとりひとりが己の内から湧き上がる音楽というものを見つめ、それをぶつけ合うべき段階にあるように思う。あえて乱暴な言い方をすれば、歌い手も作り手も、もっと「わがまま」になっていいのではないか。
 恐らく今のファンがしゃかりに期待するのは「涼しげで伸びやかな曲と歌声」だろう。それを意図的に裏切るようなあざとさがあってもいいと思うのだ。「こんなのしゃかりじゃない!」と言わせるようなあざとさが。(つづく)


しゃかり:和製マドレデウス1(2001.8.12)
 私が「しゃかり」を聴いて感じた疑問のひとつは、音作りの方向性が見えないということだ。つまりは模索中なのだろう。
 ボーカル、ギター、ベース、ドラム、シンセサイザーというのが現在の編成のようだが、なぜこれらの楽器が必要なのか、その明確な理由が私には見えない。
 ドラムとシンセサイザーは、ある意味とても危険な楽器だと私は思っている。鳴らしておけばとりあえずさまになる便利な存在。しかし同時に無個性な音に染め上げてしまいかねない諸刃の剣。かといって、しゃかりがこれらをなくせば全て解決するのかといえば、もちろんそんな単純な問題でもあるまい。
 私の傾倒するマドレデウスというポルトガルのグループがある。しゃかりとの2つの類似点から、もしかしてしゃかり飛躍のヒントはマドレデウスにあるのでは、といささか強引に考えてみた。本当に強引なので怒らないでほしい。

類似点1:ボーカルが女性、しかも美声を身上とする
 ちあきは艶やかで人間的なバイタリティーに満ちた声の持ち主。一方のテレーザ・サルゲイロ(マドレデウス)は透明かつ深遠な神懸り的な声の持ち主。タイプこそ違えど、声だけで聴き手を惹き込み、なおかつ抜群の歌唱力を持つという点は同じだ。
 しゃかりオフィシャルサイトにある「天に届くような(ちあきの声)」という表現は言い得て妙。ならばテレーザは「天上から響く声」といったところか。

類似点2:音楽の地域性
 マドレデウス結成の狙いのひとつは「ポルトガルの風景を表現すること」。その後、より普遍的な音楽へと転換して積極的な表現対象でなくなったものの、その地域性は今も彼らの音楽の揺るぎない個性となっている。
 しゃかりのアルバム「言葉のかわりに」もまた、琉球音階(ドミファソシド)こそ使っていないものの、沖縄の地(あるいは海)を連想させる。
 更に付け加えるなら、漁業国であるポルトガルの音楽に「海」は欠かせない要素であり、マドレデウスもまた海をテーマにした曲を数多く持つ。
 民俗音楽でもなければアメリカナイズされたポップスでもない独自のスタイルを持つ(持ちつつある)という点でも共通している。(つづく)


提案:掲示板(2001.8.4)

「認める」「人それぞれ」「押し付け」「絶対正しいことなどない」
掲示板ではこれらを禁句にすべきだ
堂々巡りの空論が減ること間違いなし

 人の意見を認めよというなら認めないという意見も認めよ
 人それぞれというなら人それぞれを拒否するのも人それぞれである
 意見を押し付けるのはよくないという意見を押し付けるのはよくない
 絶対正しいことなどないという意見の正しさは絶対ではない



「勝利のうた」を入場テーマに・続(2001.7.29)
 27日に日本武道館に行って来た。プロレスリング・ノア設立1周年記念興行の観戦である。
 この日は新世代の秋山準が王座に就くというドラマがあったが、もう一人の主役は小橋建太だ。1月に入院して以来、ファンの前に初めて姿を見せたのである。会場に「勝利のうた」が鳴り響く中……というのはもちろんウソだが、スーツ姿で現れた小橋への歓声はすごかった。
 リングに足を踏み入れた時はもう、感無量とか、そんな言葉をいくつ並べても足りないくらいの気持ちになった。
 今の彼のテーマ曲が流れなくてよかった。ファンの評判は悪くないが、私には感傷的な曲に思えて、聴いていてイライラするのだ。やっぱり小橋には「勝利のうた」だ。

 ここで小橋小橋と繰り返す私は実は田上明のファンである。


CDで聴きたい曲(2001.7.23)
 CD未収録でライブの定番という曲がいくつかある。
 筆頭は「ボラーレ」であろう。しゃがれ声のジプシー・キングスとは対照的な、それでいてまるで違和感のない名唱を聴かせ、今やディアマンテスのライブに欠かせない曲となっている。原曲はカンツォーネだが、こちらは聴いたことナシ。
 同じくジプシー・キングスのカバー「バンボレオ」も素晴らしい。この曲は「オキナワ・ラティーナ」に収録されてはいるものの、どちらを好むかは別にして、今現在ライブで聴けるものとは印象がだいぶ違う。
 フランク・シナトラやジプシー・キングスで有名な「マイ・ウェイ」(元々はフランスの曲だとか)も絶品だ。アルベルトはスペイン語と日本語で唄う。
 また、メンバーが3人になってから頻繁に演奏されるようになった、プエルトリコ人の作った曲という「ケ・セラ」がニューアルバムに収録されなかったのは意外だった。統一感の問題で除外されたのだろうか。ボブ石原、けんじ、パティの3人が脱退する直前の日比谷ライブ(2000年)のアンコールで、残った3人が演奏したのは思い出深い。
 ディアマンテスのオリジナルでは「サザンクロス」と「チバリヨー」がある。前者はライブでも殆ど演奏されなくなってしまった幻の名曲。後者はライブ用と公言しているためCD化される可能性は薄い。
 アルバム未収録曲満載のライブCD出ないかしら。

 逆に、好きだけど生で聴いたことのない曲というのもある。
 私の場合は、次の3曲がそうだ。

・この青い空を君に
・カリビアン・クイーン
・マリネラ

 特に「この青い空を君に」については後日改めて書くつもりである。


最近の収穫(2001.7.22)
 全て渋谷の中古屋にて入手。探せばあるものだ。

・沖縄限定シングル「VIVA!! 夏の色」:250円
・シングル「片手に三線を」:100円
・シングル「魂をコンドルにのせて」:50円
・シングル「魂をコンドルにのせて」:10円

 10円とは何ぞね。ディアマンテスは10円かいな。


アルベルトはコサキンリスナー?(2001.7.20)
 1996年に発行されたパンフレットに、アルベルトの好きなタレントはルー大柴、小堺一機とある。この取り合わせは私のツボを突く。
 TBS系列のラジオ番組「コサキンでワァオ!」という番組をご存知だろうか。その名の通り小堺一機と関根勤がパーソナリティを務めており、いい年したオヤジ共が「ゲベロッチョ」「ブンダバ」など意味不明な言葉を駆使する世界一おバカな番組である。ルー大柴は彼らと同じ浅井企画の所属で、この番組でもしょっちゅう話題になっているのだ。
 聞けばこの番組は琉球放送 (738kHz) でも水曜深夜1時より放送されているとか。もしやアルベルトはこの番組を聴いているのではと私は睨んでいるのだが。ケレル!


ディアマンテスファンのしゃかり評(2001.7.19)
 13日のオフ会で「しゃかり」が話題に上ったが、好意的な意見の少なさに驚かされた。
 千秋のよさが生かされるような曲作りがなされていないというのが大方の意見で、最近は多忙さもあってかやつれて見え、痛々しいほどだという。
 しゃかりもまたスタイルを模索中ということか。


ディアマンテスの進む道(2001.7.18)
「芯が欲しい」と評され、スタイルを模索するディアマンテス。ギターを前面に出したのはひとつの回答なのかも知れない。
 それはそれとして、私も「ディアマンテス=コミックバンド説」をヒントにいくつか考えてみた。
1案:斬新なプログラム
 コンサートの1曲目にいきなり「SI」を唄う。
♪今夜ここで出会えたこと忘れないamigo
 そして唄い終えたら袖に去ってしまう。
 その後アンコールで15曲唄う。アンコールの最終曲は「フィエスタ」
♪まだ宵の口 もっと踊ろう

2案:エレキ版ジプシー・キングス
 何本ものアコースティックギターが活躍するジプシー・キングスに対抗し、エレキギターを6本使う。しかも全て強烈なディストーションを掛ける。ついでにアルベルトの声にもディストーションを掛ける。ダミ声アルベルト誕生。

3案:ケーナ吹き語り
 ギターを弾きつつ唄うスタイルがおなじみのアルベルトだが、思い切って楽器をケーナに変えてラテン色を強調する。ケーナを吹きつつ高らかにバラードを唄うアルベルトの姿は音楽界に衝撃を与えること請け合いである。楽器はサンポーニャでも可。実現するにはいっこく堂への弟子入りが急務。


コミックバンド(2001.7.17)
 先日シングルCD「魂をコンドルにのせて」を中古屋で手に入れた。
 ラジオでこの曲を初めて聴いて衝撃を受けてファンになったという知人に、「ジャケットを見て買うのをためらった。コミックバンドかと思った」と聞かされて笑ってしまった。
 表も凄いが、裏面の写真はもっと凄い。不自然に取り澄ましたアルベルトの表情。派手だがどこか野暮ったい衣装。アコーディオン、コンガ、マラカスといったロックバンドらしからぬ楽器群。沖縄人ならではの濃厚な顔立ちの面々。確かにコミックバンドの雰囲気がムンムンと漂っている。ゲリラ殺人事件を題材にして作られた、悲痛の極みとも言える「魂をコンドルにのせて」のイメージとはおよそ結び付かない。
 駆け出しの頃――というには結成からだいぶ経ってからの作品だが、まだまだ垢抜けない時代ならではの微笑ましさ、気恥ずかしさが偲ばれて面白い。新作「リブレ」のジャケットとはえらい違いである。

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