「二度と唄わない」アルベルト(2001.10.9) |
知人から聞いたエピソードを紹介する。とはいえ沖縄のファンなら皆知っていることかも知れない。 何年か前の「オリオンビール・フェスタ」という無料コンサートでのこと。観客の何人かが、ビールをプロ野球優勝祝賀会よろしく撒き散らした。それを見たアルベルトは演奏を止めて厳しい口調でこう言ったという。 「世界中には満足に食べることができない人がたくさんいるのに、その振る舞いは許せない。そういうことを続けるなら僕は二度とあなた達の前では歌わない」 静まり返る客席。 こりゃ痺れますな。その場に居合わせたファンが羨ましい。よし、来年の日比谷のコンサートでは私が自ら暴れてアルベルトの勇姿を見よう。 補記:上記のアルベルトのセリフは、実際とは少し違っていることが後でわかった。が、ライブを中断して注意を促したのは事実のようだ。 |
ネットキャラを考える(2001.10.8) |
多くの掲示板では、私を煙たがる人と支持する人と両極端に分かれる。時には「あなたは相手の反論に耳を貸さない」などと言われることもあって、私としては心外というほかないのだが、弁明しようにも私の言い分には耳を貸してもらえない(何たる矛盾)のが常で、実のある話し合いができず残念に思っている。 もちろん「私がアクが強いから」などと開き直るつもりはない。反発がある以上無視すべきではないだろう。 私が長期にわたって参加したことのある掲示板で最も荒れていたのは某プロレス団体のオフィシャル掲示板だ。他団体のファンによる荒らし投稿と、応戦するファン、そして管理者による大量削除の繰り返し。場当たり的な管理姿勢もあり、改善のきざしは一向に表れなかった。 私はもうその掲示板への参加はやめてしまったが、参加していた頃の荒らし投稿への私の対応を振り返ってみると、平和的なものが結構多かったように思う。「○○という点でそのコメントは不快でした。御一考いただければ幸いです」とかなんとか。挙げ句「たしなめるのが一番うまいのは加藤さん」などと妙な誉め言葉まで頂戴したり。なんのこっちゃ。 翻ってディアマンテスのオフィシャル掲示板ではどうか。自分としてはかなり我慢しながら書いているつもりだが、それでも悪質投稿へのコメントはおしなべて皮肉が強い。なぜだろうと考える。 ひとつには、揉め事を極端に嫌う他のファンへの苛立ちがあるからだろう。もし喧嘩腰のレスが殺到したりしたら、逆に私は「まあまあ」というスタンスでコメントするかも知れない。出るべき批判が充分に出てしまえば、後はいかに収束させるかが大事だからだ。尻馬に乗っても意味がない。 つまり「充分な批判」を1人で勝手に背負い込んで声高になるというわけだ。その挙げ句こっちまで批判の対象にされているのだから世話はない。(最近は複数の人が反応するケースが増え、私も状況に応じてスタンスを変えているが。) 悪質投稿(と私が感じたもの)に他の人が反発しない理由を考えてみた。
青字のケースについては非難する筋合いのものではないだろう。(見識のあるなしを問うこともできるがここでは触れずにおく。) |
たくさんの千秋(2001.10.6) |
しゃかりでの千秋は、「ほんわか明るい」「涼しげで伸びやか」といった歌声を身上としている(ように聴こえる)。それがしゃかりの個性と言ってしまえばそれまでだが、もっと色んな千秋が聴きたいというのが私の正直な気持ちだ。今の唄い方を否定しているのではない。ただ、今聴かせてくれるもの「だけ」が千秋の歌ではないと思うのだ。 しゃかりの千秋の歌を聴いたディアマンテスのファンから「千秋さんじゃない」と言われたことがあるという。自分の中にある千秋のイメージだけを基準にものを言う偏狭な態度には呆れる他はない。私はそのファンを軽蔑する。 しかし、しかしだ。ディアマンテスで見られた千秋のいくつかの顔(歌声)がしゃかりで見られなくなったのは確かであろう。それで「千秋さんじゃない」と飛躍するのは愚の骨頂だが、自分の好きだった歌声が聴けなくなったのを残念に思うのは至って自然だと思うのだ。「秘密のアロマ」での妖しさと透明感が入り混じった不思議な情感、「優しさに一番近い島」での圧倒的なパワー、「アスタ・マーニャ」冒頭での沖縄民謡(は私は聴いたことがないが)……こうした千秋の「顔」が魅力的だったのは確かなのだから。 まだ2枚目のアルバムを出したばかりのしゃかりは、これから色々な試みをするだろう。それなのにあれもこれもとせっかちに要求するのは無粋というものかも知れない。しかし、かつて見せてくれていた数々の「顔」を一切出そうとしない今の千秋――というよりしゃかりの方向性は、私にはやや物足りない。 しつこいようだが、なぜしゃかりはマイナーコードの曲を作らないのだろう。 |
しゃかりの<闇>(2001.10.5) |
私は「しゃかりファン」ではない――と思う。それは好きな曲が少ないからというよりも、<失敗作>(と断言する自信はないが便宜上そう言ってしまう)の、その<失敗の中身>が気に入らないからのようだ。いくつかのしゃかりの曲を聴くと、正直言ってイライラしてしまう。 好きなミュージシャンの<失敗作>には、うまく表現できなかった、未消化だったと思うだけで不快感を覚えることは少ない。「表現しようとしたこと」自体には共感できるからだろう。 しかししゃかりの一部の作品には、聴いていて根本的な部分で自分と相容れないものを感じてしまうのだ。もしかしてそれらはしゃかりにとっては「失敗作」ですらないのかも知れず、だとすればこれはもう音楽観(人間観というべきか)の不一致と諦めて、私が黙るほかないのだが。 しゃかりの音楽を表す言葉は何だろう。勇気、希望、喜び、感謝、励まし……多くの人が思い浮かべるのは前向きな言葉だろう。そこに異論はないし、そうした名曲をどんどん生み出してほしいとも思う。だが――ここからが私の感じる疑問である。 <前向きなもの>を表現できるかどうかは、<前向きでないもの>をどれだけ深く見つめたかにかかっていると言っていい。苦しみがあるから解放を求め、悲憤があるから喜びを求める。人間とはそういうものだ。闇のない音楽に真の光があり得ないのは自明の理であろう。 しゃかりは絶望を表現できるだろうか。悲哀を表現できるだろうか。挫折を表現できるだろうか。悔恨を表現できるだろうか。宿命を表現できるだろうか。無念を表現できるだろうか。 と問うた先から否定しては実も蓋もないが、できないわけではないだろう。少なくともいくつかの曲に私はその種のものを感じる。ほんわかした曲想ゆえに見えにくくなっているだけで。 質問を少し変えよう。しゃかりは<闇>の表現をどこまで重要なものとして捉えているだろうか。 実は「かふう」に収録された12曲の中に、私が「これは飛ばして聴こう」と早くも決めてしまったものが2曲ある。スマン。しかも今後そうなる可能性を感じているものが更に2曲ある。スマン。 この4曲に共通しているのは、歌詞がどうにも好きになれないということだ。(曲は良いと思うものもそうでないものもある。)というのは、どれも<闇>への洞察があまりに浅墓に思えるのだ。これらの歌詞を読むと、人の苦しみを軽く見すぎているのではないかと疑わざるを得ない。 この世界には、どうにもならないものがある。取り返しの付かないものがある。それでもなお「前向き」であることがいかに大変なことか。そうした葛藤を乗り越えないままに人を勇気付けようなど不遜もいいところであろう。一部の歌詞には、その葛藤が私には見えない。きつい言い方をすれば、できの悪い少女漫画の決まり文句を羅列しているかのようだ。 私はミュージシャンでも作詞家でもないので想像で言うのだが、喜び(あるいは勇気、希望)を表現するのは、悲しみ(絶望、悔恨)を表現することより数段難しいのではないか。深く厳しく<闇>を見つめ、なおかつそれを乗り越えねばならないのだから。そこをなおざりにして前向きな心を唄おうとしたところで、能天気な作品にしかならないだろう。 以上がしゃかりの音楽観に対する私の疑念である。こうした疑念ゆえ、彼らが<闇>を直截に表現した曲をぜひ聴いてみたいと思っている。 私の知る限り、20曲を越えるしゃかりのレパートリーにはマイナーコードの曲が1つもない。取るに足らないことかも知れないが、これも私がしゃかりの音楽観を疑う要因のひとつである。 さて問題。私が歌詞を好きになれない4曲とはどれでショウ。わかった人はメールでご回答下さい。アタリかハズレかご返事します。正解者には何もあげません。また、正解は一切公表しません。kojikato@pop17.odn.ne.jp |
進化するしゃかり(2001.10.4) |
新作「かふう」は前作「言葉のかわりに」に比べ、音の洗練度が格段に増している。前作はシンセサイザーやドラムが耳障りで、編成そのもの(エレキギター、ベース、ドラム、シンセサイザー)に疑問を感じたが、「かふう」はそうした違和感を殆ど感じさせない。曲もメリハリがあって単調さを感じさせないものが増えている。(前作の「シンセサイザーオペレーション:山川清仁」の名が「かふう」にはない。おやあ?) ただひとつ惜しいと感じたのは、このアルバムの中でかなり上位にランクされると思われる「見上げれば」でドラムがドンドンパン・ドンドンパンと単調に続く箇所である。異論もあろうが、私には少し耳障りだ。 いずれにしても、しゃかりは進化している。それは間違いない。 |
しゃかり新作「かふう」必聴(2001.9.30) |
私はしゃかりの好意的な聴き手とは言い難い。デビューアルバム「言葉のかわりに」は可能性こそ感じさせるものの、完成度の高いアルバムとは思えなかったからだ。千秋という類まれな才能を持った歌い手がいなければセカンドアルバム「かふう」(KAFOO-2003)を買うことはなかっただろう。 このアルバムが発売される少し前にボブ石原氏による紹介文を読んだ。極めて好意的な内容と言っていいだろう。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~bobzy/sub40.htm(別ウィンドウで開きます) 私が「かふう」を聴いた時、この紹介文の内容はすっかり忘れていた。先入観を持たずに聴けてよかったと思う。 細かい感想は後日述べるとして、正直に言ってしまえば、「お、いいじゃないか」と感じた曲もあれば、聴いていてイライラさせられた曲もあった。(前作「言葉のかわりに」に比べるとかなりの進化が感じられたがそれも後述。) そこで改めて石原氏の紹介文を読んで吹き出してしまった。 というのは、私が気に入った曲は石原氏も概ねはっきりした言葉で誉めている一方で、そうでない曲については、いいのか悪いのかよくわからない言い回しでことごとく通り過ぎているのだ。さてこの曲はどう紹介したものかと悩む様子が行間から伝わって来て、なんとも可笑しかった。 もちろんそうしたやり方で紹介するのは、時期や目的を考えれば当然のことだろう。そして紹介文にウソは一切ないはずだ。「お奨めの名盤」との評も本心にちがいない。だからこの紹介文を批判する気は毛頭ない。むしろ至って良心的な紹介だと私は思っている。ただ書き手の苦心ぶりがユーモラスだと言いたいだけである。私は行間から石原氏の本音を想像してはニヤついている。 とはいえこれはあくまで憶測である。もしかしたら石原氏はどの曲も気に入っているのかも知れない。私のように時折眉間にしわを寄せたりせずに、キャンディ・キャンディのような目をして聴き惚れているのかも知れない。 だから自分の耳で聴くまでは決して「曖昧な言葉で紹介されている曲は今イチ」などと決めてかからないでいただきたい。私の好き嫌いだって、聴き込むうちに変わる可能性がないとは言えない。 以上、暴露と言うのもはばかられる、憶測たっぷりの暴露話でした。真相やいかに。「かふう」を買おうかどうか迷っているアナタ、音楽のみならず紹介文の「裏読み」という楽しみも約束されたお得な一枚、必聴でっせ。と宣伝したから許して、しゃかり。 (しゃかりのアルバムは全国のCD店で買えるらしい。知らんかった。) |
独りよがりのゴミバンド(2001.9.25) |
日比谷ライブのチラシの裏に掲載されている松山晋也なる人の紹介文、これがひどい。どうしようもなくひどい。一部紹介する。
説明の必要はないだろう。というか(いけね、伝染した)バカバカしくて説明する気にもなれぬ。
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ルビエス考(2001.9.24) |
ルビエスに感じたことは前項で述べた通りだが、ルビエス以上に気になったのは、彼女達が登場してからのアルベルトの精彩のなさだ。愛弟子がうまくやってくれるか心配で歌に集中できなかったのではないか。「Go!
Go Ahead!」ではなんだか音程がおかしい気がしたし、「カリビアン・クイーン」に至ってはトチっていなかったろうか。(確証はない。前者はキーの低い曲だからそう感じただけかも知れないし、後者は聴いてる私の気が散っていて勘違いしただけかも知れない。) アルベルトのみならず、ルビエスがいる間は伴奏も今ひとつさえなかったような気がする。ルビエス抜きで演奏した「Libre」と「Si」では、メンバーがその「鬱憤」を晴らしているようにさえ感じた。 ルビエスがいる間の印象は「散漫」の一言に尽きる。但しこれは、変にルビエスを気にして気が散ってしまった私自身に原因があるのかも知れない。ここから先はあくまで原因がルビエスとディアマンテスにあると仮定しての意見だ。 ルビエスがディアマンテスのコンサートに貢献しているかと言えばノー。アマチュアでも彼女達よりうまいダンサーはいくらでもいるだろうし、わざわざ彼女達を選んで起用するメリットは見当たらない。のみならず正規メンバーまで引きずられて歌や伴奏の質が落ちたのでは目も当てられない。 現時点での実力と将来性、いずれも首を傾げざるを得ない水準のルビエスを、コンサートの質を落としてまで起用するのは理解に苦しむ。アルベルトも質が上がるとは思っていないはずだ。心配で集中できないのは彼女達の力量を「信頼していない」ということにほかならないからだ。 アルベルトは一体ルビエスをどう育てたいのだろう。一流ミュージシャンだろうか。それともSPEEDのようなアイドルだろうか。前者なら資質を疑わざるを得ないし、後者なら音楽性重視のディアマンテスのコンサートは場違いであろう。 これは知人の受け売りだが、もし彼女達に将来性を認めているのならば、せめて「ゲスト」でなく「前座」という扱いにするわけには行かないだろうか。それならばディアマンテスファンの反発も少ないだろうし、彼女達に必要以上のプレッシャーを与えずにすむとも思うのだ。 |
9.22日比谷レポート(2001.9.24) |
開場が30分遅れ、開演は15分遅れる。あのなあ。銀座わしたショップで買った「醗酵ウコン茶」なる、少し読み間違えると大変なことになる飲み物を片手に音楽に耳を傾けた。 「魂をコンドルにのせて」 この時期に平和がテーマの曲は重い。 好きな曲だが私はどうも曲の重さとファンの乗りのギャップが気になって、ライブではCDで聴く時のように入りこんで聴けたことがない。 しかしこの日はファンを能天気にさせない何かがアルベルトの歌声にあったような気がする。ライブ序盤でファンが乗り切れてなかっただけかも知れないが。 「Be My Sweet」 魅力的な旋律と軽薄な歌詞。聴き方に困る曲である。 終盤の日本語歌詞でない部分だけは何も考えずに楽しめるのだが。 「Viento Gitano」 何度聴いてもギターの掛け合いは圧巻。なんて、まだ生で聴くのは2度目か。 「ペルー風ワルツメドレー」 3人の正規メンバーだけで演奏されたメドレーが私にはこの日のハイライト。私がディアマンテスに期待する路線のひとつだからだ。アルベルトが冗談めかしてこぼした「音が少ない」という言葉を複雑な心境で聞いていた。 今は6人で演奏することが多いようだが、折角身軽になったのだから、こうした試みをどんどんやってほしいと思う。パティでのライブをトリオでやるとか。いや、パティは遠いから横浜でやって。 「ディメロ」 去年は「バッフォ・エル・ソル」がそうであったように、意図しているのかどうかはわからないが会場のボルテージを一気に上げる役割を担う曲が必ずある。この日は「ディメロ」がそれだった。 「カリビアン・クイーン」 生で聴いてみたかった曲。トム仲宗根の作品の中では一番好きな曲でもある。だが残念ながらやや不満足。理由は「ルビエス考」にて。 さて注目の「ゲスト」ルビエス。ソロは1曲もなく、役回りはダンス9割コーラス1割といったところ。去年の盛り"下がり"ようを受けての配慮か。逆に言えばソロを任せられるだけの歌唱力は今もないということだろうか。 ではダンスはどうか。懸命さは充分に伝わって来た。ディアマンテスの足を引っ張るまいと必死なのはよくわかった。もしこれがアマチュアのダンス大会だったなら拍手を贈っていただろう。つまりはそういうことだ。 感想を書こうとするとどうも不満点ばかり挙げてしまう。不満タラタラで会場を後にしたのかといえば決してそんなことはない。ディアマンテスのコンサートの後は、ただただ心地よい余韻で満たされるよりも、普段自分の奥底で渦巻いている喜怒哀楽や不安や焦燥が入り混じった奇妙な感覚に包まれることが多く、音楽そのものの感想を言葉にするのは難しいのだ。と逃げておく。 |
2001.9.22日比谷コンサート曲目 |
(ルビエス登場 17までダンスと一部コーラスで参加 いや18までだったかな)
(アンコール)
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