ディアマンテス小史


片道航空券
 南米のペルーで生まれ育ったその青年が、演歌歌手を志して地球の裏側日本へと旅立ったのは1986年のことである。

 沖縄出身の4人の祖父母を持つ日系3世のアルベルト城間は、1966年にペルーの首都リマで生まれた。音楽好きの家族に囲まれ、幼い頃から唄うことが大好きだった。日系人の日本への憧れは強く、「紅白歌合戦」を知らぬ者はない。アルベルトもまた例に漏れず、子供の頃は「君といつまでも」が愛唱歌だった。
 アルベルトの類まれな歌声は評判となり、周囲の誰もが彼の歌を聴きたがった。高校の卒業式(卒業記念パーティー?)の時は、大勢を前に細川たかしのヒット曲を意味も知らずに唄ったという。
 ♪わたしバカよね〜

 転機の訪れは19歳の時。日系人歌謡コンクール・南北アメリカ大会で優勝したアルベルトが手にした賞品は、日本への片道航空券であった。 
 アルベルトの決断は早かった。「日本で演歌歌手になろう。」
 周囲の日系人達の熱烈なバックアップもあり、アルベルトは颯爽と日本行きの飛行機に乗り込んだ。贈られた餞別は2,000ドル。当時のペルー人の平均年収に相当する額である。


挫折 〜東京〜
 地元の人達の期待と餞別を一身に背負って東京にやって来たアルベルトの夢は、あまりにあっさりと崩れ去った。
「日本語が苦手なのと足の短さが災いして」(アルベルト談)演歌歌手への弟子入りすら果たせなかったのである。
 歌手への道は一歩たりとも進むことができず、日々は虚しく過ぎて行った。部屋でギター片手に思いつくまま唄いながら、アルベルトはひとり泣いた。
 後にディアマンテスの出世作となる「ガンバッテヤンド」(日系人が作ったスペイン語。「頑張る」のing形)や「勝利のうた」の作曲にアルベルトを駆り立てたのは、この時の苦しみだったのかも知れない。
 アルベルトは、来日から僅か1ヶ月で東京を去った。


再起 〜沖縄〜
 初めて訪れた沖縄の地で感じた不思議な郷愁。
 ペルーには帰るに帰れない。藁にもすがる思いで訪れた、祖父母の故郷でもあるこの場所で、アルベルトの歌手への道が開けることになる。
 当時沖縄県青年団副団長であった城間良和なる人物がアルベルトに救いの手を差し伸べた。姓は同じだが血縁関係はない。城間氏はアルベルトに日本語を教え、アルバイト先に沖縄料理店を紹介し、更には琉球音楽を習わせた。
 アルベルトの琉球太鼓の上達は目覚しく、彼のリズム感は太鼓の師匠も舌を巻くほどのものであったという。しかし正座すらしたことのなかったアルベルトにとって古典音楽の稽古はこの上なく厳しいもので、「楽しむだけでは音楽で生きて行けないという厳しさを叩き込まれた」と述懐する。後にディアマンテスで花開く彼の音楽の底抜けの明るさを支えているのは何なのか、その解答のひとつがここにある。

 アルベルトは沖縄に渡った2年後の1988年にアマチュアバンド「ヒューマン・サウンド」に加入する。そこで知り合ったベーシストのトム仲宗根と共に翌1989年にはディアマンテスの前身「トリオ・ディアマンテス」を結成した。アルベルト(ギター、ボーカル)、トム(ウッドベース)、ビクトル(パーカッション)という3人のグループで、仲原リカ(ボーカル、フルート?)が編成に加わることもあったという。(それ以前には、仲原リカやボブ石原と共に演奏活動をしたこともあるということだが詳細は不明。)

 沖縄で再び音楽の道を歩み出したアルベルトは、そこで出会った音楽仲間である仲原リカと1992年に結婚する。沖縄人の血を引くペルー人男性と、日本で育った日米混血の女性。私達は、後に生み出される「沖縄ミ・アモール」「瞳はダイヤモンド」といったディアマンテスのレパートリーを思い起こさずにはいられない。愛娘の誕生に触発されて作られたのであろう「アスタ・マーニャ」といい、どれもディアマンテスの歴史を語る上で欠かすことのできない名曲だ。


転 機
 トリオ・ディアマンテス結成と前後して、彼にひとつの転機が訪れる。
 古典音楽のコンクールの太鼓部門で「最高賞」受賞。その道を極めるべく、アルベルトは芸術大学への入学を決意した。もしすんなりと入学を果たしていたなら、彼の人生は全く違うものになっていただろう。
 だが、そんな彼に思わぬ障害が立ち塞がる。日本の大学に進むには、小、中、高と12年間の教育を受けねばならない。しかしアルベルトはペルーの義務教育である11年間しか就学していなかった。芸術大学に進むには、大学検定試験合格か日本の高校卒業いずれかが必須なのである。どちらを選ぶにしても、日本語の不自由なアルベルトにとっては並大抵のことではないだろう。

 遠回りはしたくなかった。自分の歌にも自信があった。
 23歳のアルベルトは、ためらうことなくプロへの道を選ぶのだった。


始 動
 トリオ・ディアマンテスとしての2年数ヶ月の活動を経て、ロックバンド「ディアマンテス」が結成されたのは1991年9月20日のことである。
 アルベルト城間(ギター、ボーカル)とトム仲宗根(ベース)に、当時同じくトリオ・ディアマンテスでパーカッションを担当していたホルヘ城間(ドラム、パーカッション)、ターボ(ギター)、そして2000年までリーダーを務めるボブ石原(キーボード、アコーディオン、ギター)を加えた5人が結成メンバーである。また、1992年までは仲原リカ(ボーカル、フルート?)も演奏に加わっていた。
 ディアマンテスの構想はギター担当のターボによる。カルロス・サンタナを敬愛する彼は、アルベルトとなら同じラテンロックができるにちがいないと、結成に踏み切ったのである。

 沖縄市にあるクラブ「Pa'Ti」を拠点に、ディアマンテスの活動が始まった。当初オリジナル曲があまりなかったため、レパートリーは殆どがカバー曲であったが、彼らの評判はまたたく間に広まり、結成から僅か3ヶ月後には収容人員100名足らずというそのクラブは満席になっていた。
(その後「Cafe Pa'ti」と名を変えたこのクラブは今もディアマンテスの活動の拠点となっており、月に1度彼らの音楽を間近で楽しむことができる。)

 同年に、彼らはデビュー曲「ガンバッテヤンド」を発表した。(この曲は地元のCMソングに採用もされた。)
 ガンバッテヤンド(Gambateando)とは日系人の作ったスペイン語で、日本語の「がんばって」の語尾に"ando"(英語でいうing)を付けたものだ。元々スペイン語には「がんばって」に相当する言葉はなく、そのせいもあってかアルベルトはこの言葉からインスピレーションを得た。「これは歌にするしかないだろう。」
 きつい仕事や差別に苦しむ外国人労働者を励ます歌がデビュー曲というのが、いかにもディアマンテスらしいではないか。後にディアマンテスに加入するけんじは「壁をペンキ塗りしているとき皆でラリって生まれた曲」と語る。ウソはよくない。


開 花
 地道なライブ活動を経て、デビューアルバム「オキナワ・ラティーナ」の発表に漕ぎ付けたのは1993年のことである。このアルバムは、同年に加入したちあき、パティー、けんじの3人を加えた8人によって作られた。ディアマンテスは1998年までの5年間の演奏活動を、この8人で行うことになる。
 当時19歳のちあき(コーラス、ダンス)は十代前半の頃から歌手として盛んに活動していた実力の持ち主で、沖縄民謡の名手でもある。
 アルベルトの従姉妹に当たるパティー(コーラス、ダンス)は結成時のディアマンテスのライブの常連で、自己流にもかかわらず見事なダンスを踊っていたのがメンバーの目に留まり、スカウトされた。
 けんじ(トロンボーン)は目立った音楽のキャリアこそなかったが、兄の友人にあたるボブ石原に誘われるまま一員となった。
「結構いい加減に8人になったんです」とはボブ石原の弁。
 一方、アルベルトと結婚していた仲原(城間)リカは1992年を最後にディアマンテスを去っている。

 デビューアルバム「オキナワ・ラティーナ」には、デビュー曲「ガンバッテヤンド」や、今も抜群の人気を誇る「沖縄ミ・アモール」をはじめ、7曲のオリジナル曲と3曲のカバー曲が収められた(+ボーナストラック1曲)。若いバンドならではの勢いを感じさせるこのアルバムは話題の的となり、沖縄県内で5000枚という、駆け出しのグループとしては脅威的な売り上げを記録した。
 カバー曲で特筆されるのは「コンドルは飛んで行く〜花祭り」であろう。ギター1本という型破りなスタイルもさることながら、アルベルト自身が「音楽への道を切り開いてくれた」と語るこの絶唱には唖然とする他はない。(つづく)



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