99.6.2299.7.4

321 すみません、補足です 投稿者:いどっち 投稿日:99/06/22(Tue) 23:14
   すみません。またまたお邪魔いたします。

>  たとえ自己満足でありましても、それなりの規模のサイトで、それなりの来訪者がありましたらそれで満足です。
>  加藤さんのHPは、私の理想とします個人HP像の一つでもあります。

 大変失礼いたしました。
 加藤さんのサイトが、「それなりの〜」と言う意味では、決してございません。
 どうか、誤解なさらないで下さい・・・。

 それでは、失礼いたしました。
322 xxxx高校に編入したい 投稿者:やまちん 投稿日:99/06/23(Wed) 23:07
   xxxx高校で、検索しましたら加藤さんがでてかわったことをやってるなと思いました。 xxxxは母校ということですが、xxxxの生徒は頭はいいのでしょうか
 毎日生徒をみていますがあんな子がとか、ピアス髪染めなどなどすこし幻滅していますが、xxxxに編入制度があるようであれば通ってみたいところです。
 そうゆう内容が、わかるようであればご返事ください。夜間はイヤです。
 イイ話をおまちしています。  では
323 分類 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/06/23(Wed) 23:08
   鼓童のコンサートはいい席が取れたためしがない。
 チケット発売日の昼ちょっと前に買いに行ったら21列目の隅。
 今度はもうちょい早く行こうっと。

 で、思わぬ展開にビックリ。
 感動の種類を4つに分類してみましょう。
 まずはわかりやすいものから。

1.奥深い作品から受ける奥深い感動
2.薄っぺらな作品から受ける薄っぺらな感動

 1は説明不要ですね。
 2は、ろくでもない作品に「なんとなく」涙したといったケース。
 感想は「感動した」「泣いた」。その先には何もない。
 手塚治虫の言うところの「間違った感動」というのは主として2を指していると思われます。
 そしてちょっとややこしいのが、

3.奥深い作品から受ける薄っぺらな感動

 これは作品の本質を捉えることなしに涙したりするという体のもので、手塚治虫の論に添えば「間違った感動」に属します。
 このような種類の感動がある以上、

>「間違った感動」という言葉、及び考え方は、「客観的な」作品評価の次元に存在する概念である

 は成り立たないように思います。
 感動の質は作品と受け手双方にかかっていると考えるのが妥当ではないでしょうか。そして更にこの部分。

> もし、その「感動」がその場限りのものであって、なんらその人の心の深い部分に影響を与えなかったとしましても、「その程度の」感動として、やはりそれは「間違った感動」とは言えないと思うのです。

 手塚治虫が問題にしているのは、感動の大小ではなく質的な部分です。
 つまり感動が大きかろうと小さかろうと、深い部分に影響を与えるものであれば否定してはいません。
 一方質的に問題のある感動は、その感動で放心しようと号泣しようと無意味であるということです。
 この種の感動を肯定するのは、麻薬の快感を肯定するのに等しいと私は考えています。
 麻薬との違いがあるとすれば、体に害がないことくらいではないでしょうか。

 さて最も厄介なのが、

4.薄っぺらな作品から受ける奥深い感動

 こんな実話があります。
 ある音楽映画に「感動」して音楽家になろうと決心した少年、本当に一流の音楽家になってしまった。
 しかしその肝心の映画、大人になってから観ると実にお粗末。ひどい映画だった。
 これは極めて特殊なケース、「ひょうたんから駒」ですね。
 恐らく手塚治虫もこうしたケースまで想定してはものを言っていないだろうと思います。
 この種の感動を「本物の感動」と「間違った感動」どちらに分類するかは非常に難しいものがあると思います。
 たとえるならマクドナルドのハンバーガーのおいしさに感動して料理人を目指し、一流の料理人になってしまったというような(マクドナルドさん、ごめんなさい)。
「人生を変えたのだから本物の感動だ」とも言えるし「無知のもたらした偶然に過ぎない」とも言えます。

>トレンディードラマでありましても、受け取る方によりましては、そのストーリーに自分の過去の経験が呼び起こされ、「感動」を覚える場合もある

 こうしたケースはストーリーが自分の経験を「想起」するきっかけとなったのにすぎず、作品そのものから受けた感動とは言えないと思うのです。
 例えば身内をガンで亡くしたばかりの人が、人がガンで死ぬドラマを観て涙した場合、その涙に嘘はないと思います。しかしそれは「ドラマによる感動」と言えるでしょうか。
 ドラマがもたらしたものが「共感」なのか「想起」なのかという点を見落としてはならないと思います。
 後者の「想起」であったなら、これは1〜4のいずれにも属さないように思います。
「共感」と「想起」両方ある場合もあるでしょうけど(上記の例で言えばガン患者を身内に持った人の心情がよく描かれていた場合)、しっかりした人物描写のなされていないドラマにおいては深い共感など望むべくもありません。
 あるとすれば、それは自分のセンチメンタリズムにドラマのセンチメンタリズムが重なったという世にも滑稽な「共感」ではないでしょうか。

 したがって「作品は感動のきっかけに過ぎない」という理屈、当を得た部分もあるとは思いますが、その作品によって「なぜ」涙したのかといったところまで突っ込んで考える必要があるように思います。

 私の考えをまとめると、「本物の感動」に属するのが1、「間違った感動」に属するのが2と3、分類の困難な特殊なケースが4となります。
 また「感動」を論じる際に、特殊なケースたる4をことさら強調することにもやや疑問を感じます。


 宮崎アニメが「夢」「希望」といった言葉で括られる風潮を私は好きになれません。
 私が彼の作品に感動するのは、彼が人間の「救いのなさ」から目をそむけるどころか、誰よりも真摯に向き合っているからです。
 娯楽作品として人気の高い「カリオストロの城」などはルパンの宿命(救いのなさ)が全編に流れ、ある意味悲しさに満ちた物語であり、その悲しさこそがこの映画の傑作たる由縁とも言えます。

「『子供達の未来』なんて言葉を聞くとむしずか走る。そこにいる子供の未来は『つまらない大人』ですよ。」
 これが宮崎駿の言葉だと知ったら驚く人が多いのではないかと思いますが、私にとっては至極当たり前に受け止められる言葉なのです。
 こうした厳しさは全ての宮崎アニメに流れているからです。

 更に付け加えるなら、宮崎駿は「救いのない物語」(というより「救いのないだけの物語」)などひとつも作ってはいません。
 宮崎アニメ(および漫画)の中で描かれているのは「救いのなさ」ではなく、「救いのなさにどう立ち向かうか」です。
 ハッピーエンドであるかどうかと、救いのあるなしには相関関係はないのではないでしょうか。

 ちなみに私は映画「ナウシカ」よりも漫画「ナウシカ」の方がむしろ「救い」に満ちた物語と言えるのではないかとも思っています。


>加藤さんのサイトが、「それなりの〜」と言う意味では、決してございません。
>どうか、誤解なさらないで下さい・・・。

 しまへんしまへん(笑)。

追記
 未読の方に無闇に教えてしまうのはまずいかと思いますがひとつだけ。
 漫画「ナウシカ」はハッピーエンドではないけれど絶望的なラストでもありあません。
324 「感動」の質 投稿者:いどっち 投稿日:99/06/26(Sat) 00:35
   こんばんは。
 お邪魔させていただきます。

 近頃、再放送で「Zガンダム」をやっていまして、時間が合いますので毎回観ているのですが、これがなかなか面白いです。

 実は「ガンダム」は初代しか観ていなかったのですが、こんなに面白いのでしたら、もっと早く観ていたら良かったと思いました。

 今、8話ぐらいまで観ましたのですが、やはり初代よりは、かなり人物描写に力が入っています。
 それに、作品テーマもより明確になっています。
 対象年齢もだいぶ上がっていると思いますが、「初代」を子供の頃に見た人が、ちょうどその7年後に観るアニメとして、ぴったり合っているように思いました。

(ただ、ラストの評判の悪さ(私的には、「後味の悪さ」)は聞いていますから・・・(苦笑)。)

>  で、思わぬ展開にビックリ。
>  感動の種類を4つに分類してみましょう。
>  まずはわかりやすいものから。
>
> 1.奥深い作品から受ける奥深い感動
> 2.薄っぺらな作品から受ける薄っぺらな感動
>
>  1は説明不要ですね。
>  2は、ろくでもない作品に「なんとなく」涙したといったケース。
>  感想は「感動した」「泣いた」。その先には何もない。
>  手塚治虫の言うところの「間違った感動」というのは主として2を指していると思われます。

 う〜ん・・・。
 確かにご呈示されました分類分けは、私にも納得できますし、その通りだと思います。
 ただ、それ以前の前提の部分に引っかかるものがあるのです。

 そもそも本当に、「その先には何もない」という種類の感動があるのでしょうか・・・。
 だとしますと、それは一体何を持って区別するのでしょうか・・・。

 「何も残らない」と言いますのは、まさに感動しているその時点では、本当にそうであるのか、まだ結果は分からないわけです。

 また、作品が後の人格形成に何らかの影響をもたらす場合でも、その影響が必ず認識できるとは限りません。
 なぜなら、その影響が具現化するためには、何らかのきっかけが必要だからです。
 つまり、そのような(影響が表れる)機会に恵まれなければならないわけでして、その成否は、もちろん感動の質とは無関係です。

 そもそも、感動を覚えたそのとき、自分でその感動の質がどんなものであるかを自覚できているかと言いますと、それは難しいかと思います。
 
 それに、いわゆる「雰囲気に酔った」と呼ばれる種の感動でありましても、その感動の質を評価する基準は果たしてありますでしょうか。
 どのようなものでありましても、感動を自分で否定するということには、私としましては、未だ納得しかねる部分があるのです・・・。

>  そしてちょっとややこしいのが、
>
> 3.奥深い作品から受ける薄っぺらな感動
>
>  これは作品の本質を捉えることなしに涙したりするという体のもので、手塚治虫の論に添えば「間違った感動」に属します。
>  このような種類の感動がある以上、
>
> >「間違った感動」という言葉、及び考え方は、「客観的な」作品評価の次元に存在する概念である
>
>  は成り立たないように思います。

 いえ、これはただ単に、「自分の得た感動の質について議論することは、客観的な視点が必要であるし、感動が主観的なものである以上、その客観的な評価は作品評価につながる」と言う意味でお書きしました。
 言葉足らずでして、申し訳ありませんでした。

>  感動の質は作品と受け手双方にかかっていると考えるのが妥当ではないでしょうか。そして更にこの部分。

 これにつきましては、全くご指摘の通りだと思います。
 感動の質、種類は、もちろん作品に大きく影響されるでしょう。

 ただ、私がお書きしたかったことは、感動を得るという行為自体が、主観的な次元で行われるということです。

 つまり、同じ作品でも感動する人と、しない人がいます。
 この場合、その両者の差異は、作品ではなく、本人に有ると言うことです。

 (もちろん、その決め手は、全て作品の内容に影響されますが、どの部分に影響される等の部分は、当然個人個人に依存します。)

 より深い知識、見識を備えた時点で感じた「感動」の方が、常に正しい「感動」であるとは思えません。

> > もし、その「感動」がその場限りのものであって、なんらその人の心の深い部分に影響を与えなかったとしましても、「その程度の」感動として、やはりそれは「間違った感動」とは言えないと思うのです。
>
>  手塚治虫が問題にしているのは、感動の大小ではなく質的な部分です。
>  つまり感動が大きかろうと小さかろうと、深い部分に影響を与えるものであれば否定してはいません。
>  一方質的に問題のある感動は、その感動で放心しようと号泣しようと無意味であるということです。
>  この種の感動を肯定するのは、麻薬の快感を肯定するのに等しいと私は考えています。
>  麻薬との違いがあるとすれば、体に害がないことくらいではないでしょうか。

 この部分も、先に書かせていただきました通りなのですが、ただ一つ、ご呈示されました「麻薬」の例が今ひとつ掴めません。

 麻薬で得られる「快感」と、それ以外の(脳内物質の分泌で得られる)「快感」との、違いはその手段のみであり、得られる「快感」の質は同等のものであると理解しておりますが・・・。
(もちろん、経験は無いのですが(笑)。)

>  さて最も厄介なのが、
>
> 4.薄っぺらな作品から受ける奥深い感動
>
>  こんな実話があります。
>  ある音楽映画に「感動」して音楽家になろうと決心した少年、本当に一流の音楽家になってしまった。
>  しかしその肝心の映画、大人になってから観ると実にお粗末。ひどい映画だった。
>  これは極めて特殊なケース、「ひょうたんから駒」ですね。
>  恐らく手塚治虫もこうしたケースまで想定してはものを言っていないだろうと思います。
>  この種の感動を「本物の感動」と「間違った感動」どちらに分類するかは非常に難しいものがあると思います。
>  たとえるならマクドナルドのハンバーガーのおいしさに感動して料理人を目指し、一流の料理人になってしまったというような(マクドナルドさん、ごめんなさい)。
> 「人生を変えたのだから本物の感動だ」とも言えるし「無知のもたらした偶然に過ぎない」とも言えます。

 この場合も私は、「本物の感動」と呼んでも良いのでは、と思います。
 と言いますのは、もちろん感動の質は作品の内容に影響されるでしょうが、その優劣とはほとんど関係が無いと思えるからです。

 ご指摘の例に限らず、同じ作品でも鑑賞した時期によって、それから得られる印象や感動が大きく異なる場合も多いかと思います。
 これらも、その本人のそのときそのときの状態(考え方、知識、好み等)によって変わるわけであり、つねに時間的に後の方で鑑賞して得た印象の方が、正しいという保証はありません。
 また、それらを判断することも無意味に思えます。

 お出しにならましれた例の場合でも、後にその映画を見直すことによって得た印象(「実にお粗末(であった)」)。この印象を得ることになったきっかけは、あくまで過去に同じ映画を観て感動したという、その経験が密接に関わっているはずです。

 後で観て、お粗末だという印象を得たから、この映画は実はお粗末なものであったという結論は、本当に正しいものなのでしょうか。
 その保証はありませんし、仮に過去に観て感動したときは、明らかにある種の知識、批評眼が欠けていたと自覚できた場合でありましても、それなら、過去に観たときに得た感動、印象がウソであると断言できましょうか。

 それならば、おそらくほとんどの人がほとんどの作品を鑑賞して得た印象、感動がウソであると言うことになるでしょう。

 なぜなら、この世に存在するあらゆる知識、見識を身につけている人はいないと断言できるからです。

 例えますなら、子供の頃に「ガンダム」のアクションシーン、ロボットプロレスに魅せられた少年が、後に見直してみて、今度はその人間描写、作品に込められたメッセージに気付いて、再度感動を覚えたときに、子供の頃に興奮したあのアクションシーンの感動はウソなのかといいますと、そんなことはもちろんないと思えるからです。(蛇足でした(苦笑)。)

> >トレンディードラマでありましても、受け取る方によりましては、そのストーリーに自分の過去の経験が呼び起こされ、「感動」を覚える場合もある
>
>  こうしたケースはストーリーが自分の経験を「想起」するきっかけとなったのにすぎず、作品そのものから受けた感動とは言えないと思うのです。
>  例えば身内をガンで亡くしたばかりの人が、人がガンで死ぬドラマを観て涙した場合、その涙に嘘はないと思います。しかしそれは「ドラマによる感動」と言えるでしょうか。
>  ドラマがもたらしたものが「共感」なのか「想起」なのかという点を見落としてはならないと思います。
>  後者の「想起」であったなら、これは1〜4のいずれにも属さないように思います。
> 「共感」と「想起」両方ある場合もあるでしょうけど(上記の例で言えばガン患者を身内に持った人の心情がよく描かれていた場合)、しっかりした人物描写のなされていないドラマにおいては深い共感など望むべくもありません。
>  あるとすれば、それは自分のセンチメンタリズムにドラマのセンチメンタリズムが重なったという世にも滑稽な「共感」ではないでしょうか。

 この部分ですが、「想起」と「共感」は、私は両者を明確に区別して考えることは難しいかと考えます。

 「共感」を呼ぶ、その原因の一つが「想起」である、と言って良いかと思います。

 作品を鑑賞して「共感」を覚えた場合、当然のことながら、自分の体験、思索から導き出された考えが、作品と共鳴する訳です。
 「過去の記憶が呼び起こされて」と書きましたのは、その一例でありまして、私がお伝えしたかったことは、「あらゆる『感動』が、自分の経験、思索等(つまり、自分の内面)から、浮き上がってくる」ということなのです。

>  したがって「作品は感動のきっかけに過ぎない」という理屈、当を得た部分もあるとは思いますが、その作品によって「なぜ」涙したのかといったところまで突っ込んで考える必要があるように思います。

 ご指摘のこの部分、私もおっしゃる通りだと思います。
 ただ、自分が感動したと言う事実と、その感動の質、種類を評価する、という部分は別に考えたいのです。

 どうやら私には、「薄っぺらな感動」があるとしまして、そのときなぜ、薄っぺらながらも「感動」を覚えるのか、をいう部分を考える必要があるようです。

 私は、そのような感動を否定する事が、未だに納得出来ないのです。

 感動は、いずれ覚めるものです。
 そのとき、冷静かつ客観的にその感動の質を考えますことは、作品評価や思索には必要だと思いますが、その時点で感動に理由付けすること、そして、それらを否定することは、不自然だと思えるのです。

 少し話がそれてしまいまして恐縮ではありますが、私の考えとしましてはこんなところです。

>  私の考えをまとめると、「本物の感動」に属するのが1、「間違った感動」に属するのが2と3、分類の困難な特殊なケースが4となります。
>  また「感動」を論じる際に、特殊なケースたる4をことさら強調することにもやや疑問を感じます。

>  宮崎アニメが「夢」「希望」といった言葉で括られる風潮を私は好きになれません。
>  私が彼の作品に感動するのは、彼が人間の「救いのなさ」から目をそむけるどころか、誰よりも真摯に向き合っているからです。
>  娯楽作品として人気の高い「カリオストロの城」などはルパンの宿命(救いのなさ)が全編に流れ、ある意味悲しさに満ちた物語であり、その悲しさこそがこの映画の傑作たる由縁とも言えます。
>
> 「『子供達の未来』なんて言葉を聞くとむしずか走る。そこにいる子供の未来は『つまらない大人』ですよ。」
>  これが宮崎駿の言葉だと知ったら驚く人が多いのではないかと思いますが、私にとっては至極当たり前に受け止められる言葉なのです。
>  こうした厳しさは全ての宮崎アニメに流れているからです。
>
>  更に付け加えるなら、宮崎駿は「救いのない物語」(というより「救いのないだけの物語」)などひとつも作ってはいません。
>  宮崎アニメ(および漫画)の中で描かれているのは「救いのなさ」ではなく、「救いのなさにどう立ち向かうか」です。
>  ハッピーエンドであるかどうかと、救いのあるなしには相関関係はないのではないでしょうか。
>
>  ちなみに私は映画「ナウシカ」よりも漫画「ナウシカ」の方がむしろ「救い」に満ちた物語と言えるのではないかとも思っています。

 なるほど、言われてみますと、おっしゃる通りだと気が付きました。

 私は、それらの作品を鑑賞しましたときには、残念ながらそこまで見ることはできませんでした。
 各作品、もう10年ぐらい観ておりませんが、ぜひ今度、改めてしっかりと観てみたいと思います。

> >加藤さんのサイトが、「それなりの〜」と言う意味では、決してございません。
> >どうか、誤解なさらないで下さい・・・。
>
>  しまへんしまへん(笑)。

 すみません。恐縮です(苦笑)。
 HP制作の方は、ぼつぼつとやっております。
 私も、話題ごとにコーナーを分けまして、見かけ上、別サイトのような構成にしたいと思っております。

> 追記
>  未読の方に無闇に教えてしまうのはまずいかと思いますがひとつだけ。
>  漫画「ナウシカ」はハッピーエンドではないけれど絶望的なラストでもありあません。

 ありがとうございます。そうでしたか。
 今度、(アニメ版を再度観ました上で、)読んでみたいと思っております。

 それでは、長文かつ乱文で、大変失礼いたしました。

 またお伺いさせていただきます。
 失礼いたしました。
325 怠惰と驕慢 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/06/26(Sat) 23:42
  「本物の感動」と「間違った感動」は当然ながらはっきりとどこかで線引きできるものではありません。
 その意味でこの分類は感動の質を評価するための便宜上のものと言えます。

「間違った感動」の極端な例を挙げます。

 ある物語でこんなセリフがあります。
「口先だけで『かわいそう』なんて言ってるやつほど痛くも痒くも感じてない。相手の身になって苦しむのが本物の優しさだ。」
「かわいそう」な物語を見て口先だけで「かわいそう」と涙を流す。これを「本物の感動」と言えるかどうか。
 私はこの種の感動には軽蔑どころか嫌悪感を覚えます。
「質的に劣る」どころか「ゆるせない」と思います。
 その涙の奥にあるのは現在の自分にあぐらを掻く怠惰であり「自分は心優しい人間だ」という驕慢(もしくは錯覚)だからです。
 怠惰や驕慢を助長する「感動」はまかり間違ってもその人の人生にプラスに作用することはないし、当然その種の感動を評価することも私にはできません。

 あるいは戦時中に学童が見せられた「文化映画」。
 これによって日本の子供はおおいに「感動」し、「愛国心」を養われました。
 しかしその「愛国心」は実は偏狭な「盲信」に過ぎませんでした。
 英米人は悪者であり、朝鮮人はアホであり、日本人こそ最高の民族であり正義である。
 また、真珠湾攻撃に狂喜(感動)した日本人は数え切れないほどいたことでしょう。
 こうした人間の価値観を歪める「感動」もまた私は全く評価できません。

 あるいは、以前私は「笑いも一種の感動」と言いましたが、たちの悪い「笑い」も数多くあります。
 つまり人の失敗を笑う、容姿を笑う、境遇を笑うetc.etc.

 人間を本来あるべき姿から遠ざける「感動」は誰がなんと言おうと間違ってます。
 このような感動は私は断固として否定します。

 今挙げた例は誰にでもわかる「間違った感動」の例です。
 この例にならえば「間違った感動」=「何も残らない感動」と評するのは早計であったかも知れません。
 何も残らないどころか、人間をダメにする場合もあるわけですから。
 これまで私のしてきた「薄っぺらな感動」という表現にも問題があったようです。
 もっとはっきり「人間をダメにする感動」と言うべきでした。
(その意味では手塚治虫も「その人の考えや行動に『プラスの方向に』作用して初めて本物の感動と言える」と言うべきだったのかも知れません。)
「ダメにする」と言っても「悪人になる」というようなわかりやすいものばかりではありません。
 むしろたちの悪いのは初めに挙げた「怠惰」と「驕慢」です。

「本物の感動」には時として「自分はダメなやつだ。自分は変わらねばならない」といったしんどさが付き纏います。
 極論すれば「感動=今までの自分を否定すること」とも言えるでしょう。
(「励まされた」といった感動を評価しないわけではないので念のため。これは「しんどさ」を感動によって乗り越えたケースですから。)
 一方「かわいそう」に代表されるような感動は実に楽です。同時に人間を怠けさせ、傲慢にさせます。
 そしてこうした安易な感動が世間には溢れ、またもてはやされています。
 これら全てを一括りに「感動は感動だよ」と言ってしまうのはあまりに大雑把に感じます。

 私のサイトでも取り上げている『兎の眼』の評論に、こんな言葉があります。
「人としてのありよう、生き様を問う作品において、拍手を送りたくなる、強い感動を覚えた、ということを果たして読者の最終的な到達点としてよいのであろうか。」(村中李衣)
 手塚治虫の言う「間違った感動」と全く同じですね。

 また、宮崎駿と高畑勲のこんなやりとり。

宮崎 子ども向けの作品(略)の底に流れているものは子どもに対するはげましだと思う。(略)
   そのなかに、少年を奮い立たせるジャンルのものがあってもいいと考えるんです。(略)
高畑 でも、それはすでにいっぱいある。現実に「ガンダム」をはじめメカものはほとん
   どが雄々しさを表現しようとしているでしょう。
   だけど、主人公を表現するときに結果として雄々しさがでてくるのが本道であって、
   逆に雄々しさを表現するために主人公があとからついてくるのでは意味がない。
宮崎 もちろん、ぼくのいう雄々しさは雄々しさを売り物にすることじゃない。(略)


「ガンダム」が雄々しさを売り物にした作品かどうかはここではさておきますが、「本物の感動」「間違った感動」と似た概念がこのやりとりには表れてますね。
 つまり「雄々しさを表現するために主人公があとからついてくるのでは意味がない」というくだり。
 売り物にされた薄っぺらな「雄々しさ」への感動は、しっかりした人物描写に裏打ちされた「雄々しさ」への感動よりは明らかに質的に劣る(劣るどころか「意味がない」)という点で両者の見解は一致しています。
(但しこの「意味がない」はまるっきりゼロという意味ではないと思いますが。)

 以下、気になった所に細切れにコメントして行きます。

>  近頃、再放送で「Zガンダム」をやっていまして、時間が合いますので毎回観ているのですが、これがなかなか面白いです。
>  実は「ガンダム」は初代しか観ていなかったのですが、こんなに面白いのでしたら、もっと早く観ていたら良かったと思いました。
>  今、8話ぐらいまで観ましたのですが、やはり初代よりは、かなり人物描写に力が入っています。
>  それに、作品テーマもより明確になっています。
>  対象年齢もだいぶ上がっていると思いますが、「初代」を子供の頃に見た人が、ちょうどその7年後に観るアニメとして、ぴったり合っているように思いました。


 うぬぬ……「Zガンダム」については引き続きノーコメント。
(初めはコメントしようかと思って書きましたがボツにしました。とても載せられません。)
 あえてひとつエピソードを紹介すると、作者の富野氏は自分の人間洞察の浅さを自覚しており、アニメが人間を深く描けるジャンルとして確立された時点で自分はこの世界で淘汰されるであろうことを示唆する言葉すら発しているそうです。
 つまり「Zガンダム」における人物描写はムニャムニャ。

>  「何も残らない」と言いますのは、まさに感動しているその時点では、本当にそうであるのか、まだ結果は分からないわけです。
>
>  また、作品が後の人格形成に何らかの影響をもたらす場合でも、その影響が必ず認識できるとは限りません。
>  なぜなら、その影響が具現化するためには、何らかのきっかけが必要だからです。
>  つまり、そのような(影響が表れる)機会に恵まれなければならないわけでして、その成否は、もちろん感動の質とは無関係です。


 感動した時点でその人には変化が表れます。感動そのものが「きっかけ」であり「結果」です。
 極論すれば「変化=感動」とも言えるのではないでしょうか。
 無論その変化は大抵ごく小さなもので、それが積み重なって人間が作られて行くことは言うまでもありませんが。
 またその変化にも、ある瞬間を境にガラリと変わるものもあれば、徐々に変わっていくというものもあるでしょう。
 あるいは「その時はわからなかったが後になってわかった」というような長〜い時間差のある感動もあるでしょう。

>  麻薬で得られる「快感」と、それ以外の(脳内物質の分泌で得られる)「快感」との、違いはその手段のみであり、得られる「快感」の質は同等のものであると理解しておりますが・・・。

 快感そのものは同質です。しかし麻薬の快感で人は成長しません。
 感動には快感が伴うけれども快感=感動ではないはずです。
 私が指摘したかったのはその点です。

> > 4.薄っぺらな作品から受ける奥深い感動
>  この場合も私は、「本物の感動」と呼んでも良いのでは、と思います。


 ここの価値判断については前回「分類が難しい」と言っていますので態度を保留しておきます。
 ただ、その人の人格や人生に明らかにプラスに作用している以上、これを「ケシカラン」と言うつもりはないです。

>  それならば、おそらくほとんどの人がほとんどの作品を鑑賞して得た印象、感動がウソであると言うことになるでしょう。
>  なぜなら、この世に存在するあらゆる知識、見識を身につけている人はいないと断言できるからです。


「全ての感動がウソ」というのは、ある意味当を得ていると思いますね。
 実に見事な「感動論」だと思います。
 優れた芸術作品はよく「何度観ても(聴いても/読んでも)新たな感動を呼び起こされる」と評されますから。
「ウソ」というより「不完全」と言った方が適当かも知れません。
 そしてその不完全な感動の中に上質なものとそうでないものもあると考えればつじつまが合うように思います。
(「完全な感動」となると、これは「解脱」とかいう話になるのでしょうか。)
 私は感動の定義のひとつに「未知のことがらに気付かされること」というのがあると思っています。
 知識や見識は、感受性を鈍らせたり歪ませたりすることもあるけれど、一方では作品の本質をより的確に捉える助けとなることもあるという捉え方が妥当ではないでしょうか。

>  例えますなら、子供の頃に「ガンダム」のアクションシーン、ロボットプロレスに魅せられた少年が、後に見直してみて、今度はその人間描写、作品に込められたメッセージに気付いて、再度感動を覚えたときに、子供の頃に興奮したあのアクションシーンの感動はウソなのかといいますと、そんなことはもちろんないと思えるからです。(蛇足でした(苦笑)。)

 アクションシーンの感動も評価が難しいですね。
 爽快感そのものは私も否定しませんが(シューティングゲームなど私も大好きだし)、できることなら子供にはプロレスのようにヒューマニズムに満ちたアクションを見せたいものです。
 プロレスほどヒューマニズムを体現したスポーツはちょっと他に見当たりません。って、これこそ蛇足でした。


 おおっと。手塚治虫の言葉、どの本で言ってたのか探していたのがやっと見付かりました。引用します。

 真の感動は読んだ後刺激されて自分なりの行動を始める時に初めていえるんじゃないか。刹那的に心を動かされて涙をこぼすのだったら、『E.T.』だってこぼすしね。(略)
 だからまちがった感動っていうのはいくらでもあるんです(笑)。(手塚治虫 漫画の奥義)
326 「感動」の範囲 投稿者:いどっち 投稿日:99/06/30(Wed) 00:20
   こんばんは。
 お邪魔させていただきます。

 以前、お返事はいつでも結構です、と書かせていただきましたのにも関わらず、私の方がワンテンポもツーテンポも遅らせてしまいまして、大変失礼致しております。
 本当に面目ありません・・・。

 ・・・さて、ご存じかと思われますが、昨年は初代「ガンダム」の放映開始より数えまして、ちょうど20年目の年でした。
 それに合わせまして、(主に商売関係主導でしたが、)色々なことがありましたようです。
 例えば、「ガンダム」専門誌の発刊、新作のプラモデルの発売(なんと1万2千円!!)、各種イベントの開催、などなどです。

 その中で、昨年関東でオフィシャルイベントがありまして、そこで特別編集版の初代「ガンダム」が上映されたそうです。
 もちろん私は参加できませんでしたが、その内容は気になっていました。
 (関西で開催されていましても、おそらく参加はしませんでしたと思いますが・・・(苦笑)。)

 そのビデオが限定で発売されましたので、私も購入しまして先日観ました。

 30分のビデオなのですが、その中に「初代」の名場面が凝縮されています。
 再生してみますと、4:3の画面が横に3つ並んでいます。(TVで観ますのには、サイズ的に少々きついのですが。)
 この3つの画面とステレオの音声をうまく生かした編集がなされているのです。(上映されたものは5.1チャンネルサラウンドだったそうです。)

 例えば、グフとの戦闘シーン。
 向かって右側の画面にはコクピットに座っているアムロの映像、左側の画面には同じくランバ・ラルの映像、そして中央の画面にはガンダムとグフとの戦闘シーンが映っています。
 さらに音声も、各画面のサウンドを、それにあわせた方向から流れるようになっていました。

 ノスタルジックな感動と相まりまして、なかなか新鮮(?)な体験をすることができました。

 ・・・前置きが長くなってしまいました。

> 「本物の感動」と「間違った感動」は当然ながらはっきりとどこかで線引きできるものではありません。
>  その意味でこの分類は感動の質を評価するための便宜上のものと言えます。
>
> 「間違った感動」の極端な例を挙げます。

> 「かわいそう」な物語を見て口先だけで「かわいそう」と涙を流す。これを「本物の感動」と言えるかどうか。

>  また、真珠湾攻撃に狂喜(感動)した日本人は数え切れないほどいたことでしょう。

>  つまり人の失敗を笑う、容姿を笑う、境遇を笑うetc.etc.
>
>  人間を本来あるべき姿から遠ざける「感動」は誰がなんと言おうと間違ってます。
>  このような感動は私は断固として否定します。


 なるほど・・・。
 正直申しまして、ご呈示されました種類の例は、私は自分の考えの中では、「感動」の一種としましては全く想定しておりませんでした。

 もちろん私から見ましても、これらの例のようなケースで「感動」を得る事は、おそらくあり得ないでしょう。
 ですが、実際それらの「感動」を得るようなケースは、場合によって確実に存在すると思われます。

 ・・・となりますと、話はずいぶんややこしくなってきます。

 おそらく、ここでポイントとなってきますのは、「感動」を評価しますときに・・・、

1.まさに「感動」を得たその一瞬、その「感動した」という事実だけを評価する場合。(この場合は、その「程度」のみが評価対象となるでしょう。)

2.「1.」に加えて「感動」を得た結果、その内容(つまり「質」)まで評価の対象に含める場合。

 のどちらのスタンスを取りますか、という話になってくるように思います。

 実は私は、「2.」を選択しますのに、まだ少しためらいがあるのです。
 その理由は、繰り返しになるのですが、「2.」は、その「感動」を評価しますときに、常に客観的な視点が必要であるからです。

 (私が考えます上での)「感動」の本質とは、人間の心の奥底に潜む、本人ですら自覚できていなかった深い部分での心の振る舞いを、自覚させる部分にあるからなのです・・・。

 当然、これらの部分の評価を自ら、また客観的に、正当に行うのは難しいからであります。

>  そしてこうした安易な感動が世間には溢れ、またもてはやされています。
>  これら全てを一括りに「感動は感動だよ」と言ってしまうのはあまりに大雑把に感じます。

 確かに、私もおっしゃる通りだと思います。
 ただ、この部分の評価はやはり、「感動」より後の部分の問題だと思うのです。

 私は「感動」と呼ばれます意識下での心の動きを、現象としてそのまま評価したいのです。
 その「感動」で得た結果がいかなるものであるかの部分は、その後の問題として分けて考えたいのです。

 そうでなければ、まさに「感動」しますそのときに、それに対しての価値判断を働かせてしまうことになりますし、それは決して自然な姿だとは言えないと考えます。

「感動」を何に昇華させていきますかは、確かにその人次第です。
 それは、「考え方」以外にも、各種環境が複雑にからみあって影響してくると思います。

 ですが、「感動すること」自体は、人間にとって絶対的なものです。

 その中に、客観的な視点による、また相対的な価値判断である、「質」の判断を含めるのは適当ではないと考えるのです。

 自分の言葉でご説明するのは難しいのですが・・・。

>  うぬぬ……「Zガンダム」については引き続きノーコメント。
> (初めはコメントしようかと思って書きましたがボツにしました。とても載せられません。)
>  あえてひとつエピソードを紹介すると、作者の富野氏は自分の人間洞察の浅さを自覚しており、アニメが人間を深く描けるジャンルとして確立された時点で自分はこの世界で淘汰されるであろうことを示唆する言葉すら発しているそうです。
>  つまり「Zガンダム」における人物描写はムニャムニャ。


 う〜ん・・・、そうですか・・・。
 ただ、私が観ました中では、「ガンダム」、(まだ途中ですが)「Zガンダム」、「EVA」などでは、物語のメインテーマは、決してロボットプロレスではないと思われます。
 それは、主人公である少年の、様々な出来事、また環境の変化を巡っての、心の成長物語だと言えるでしょう。
(戦いを通じて成長したのがアムロ、しなかったのがシンジ、であったと思います。
 シンジの煮え切らない、また成長しない態度は、私は観ていまして本当にイヤでした。その分カミーユは、私の感想では、主人公としましては一番ふさわしいと思います。(まだ11話までしか観ておりませんが・・・。))

「人物描写の深さ」ですが、全40話、20時間以上の長編である分、2時間ちょっとの短編映画作品よりも、時間的に多くのことを語り得る、と言いますのは暴言でしょうか・・・(苦笑)。

 ですが、「Zガンダム」は本当に面白いと思います。(シャアが味方側といいますのが特に素晴らしいです。ブライトと握手していましたのなんか、もう(笑)。)

> >  「何も残らない」と言いますのは、まさに感動しているその時点では、本当にそうであるのか、まだ結果は分からないわけです。

>  感動した時点でその人には変化が表れます。感動そのものが「きっかけ」であり「結果」です。


 確かにおっしゃる通り、私も、「変化」は感動と共に起こると言えると思います。
 ただ少し引っかかります部分は、その「変化」の内容を価値判断します場合に、果たしてそう言いましても良いのでしょうか、というところです。

 これも繰り返しになってしまいますが、「感動」して「変化」する問題と、その「質」の価値判断をします部分とは、切り離して考えるべきだと思うのです。

> >  麻薬で得られる「快感」と、それ以外の(脳内物質の分泌で得られる)「快感」との、違いはその手段のみであり、得られる「快感」の質は同等のものであると理解しておりますが・・・。
>
>  快感そのものは同質です。しかし麻薬の快感で人は成長しません。
>  感動には快感が伴うけれども快感=感動ではないはずです。
>  私が指摘したかったのはその点です。

> >  それならば、おそらくほとんどの人がほとんどの作品を鑑賞して得た印象、感動がウソであると言うことになるでしょう。

> 「ウソ」というより「不完全」と言った方が適当かも知れません。
>  そしてその不完全な感動の中に上質なものとそうでないものもあると考えればつじつまが合うように思います。


 これらの部分も上記と同じく、「感動」そのものを考えます場合とは、違う部分の評価だと考えます。
 もちろん別に考えました場合、ご指摘なされました全ての事項に、依存は全くございませんし、むしろ私も全く同感に思います。

>  私は感動の定義のひとつに「未知のことがらに気付かされること」というのがあると思っています。
>  知識や見識は、感受性を鈍らせたり歪ませたりすることもあるけれど、一方では作品の本質をより的確に捉える助けとなることもあるという捉え方が妥当ではないでしょうか。


 ご指摘のこの部分ですが、私も全く同感です。
 ですが、今回ご指摘になられています「感動」の質に付きましてのご意見は、まさにこの「知識や見識」のもとに価値判断されているのではありませんでしょうか・・・。

>  アクションシーンの感動も評価が難しいですね。
>  爽快感そのものは私も否定しませんが(シューティングゲームなど私も大好きだし)、できることならプロレスのようにヒューマニズムに満ちたアクションを見せたいものです。
>  プロレスほどヒューマニズムを体現したスポーツはちょっと他に見当たりません。って、これこそ蛇足でした。

 お話からは少し逸れてしまいますのですが、アクションシーンこそアニメーターの技術の主要な見せ所だと思います。
 それだけに、その部分に力が行き過ぎているのでしょうか、物語との結合性がやや弱いような場合が多いように思われます。
 毎回、アクションシーンは入れないとまずいのでしょうか・・・(苦笑)。

>  おおっと。手塚治虫の言葉、どの本で言ってたのか探していたのがやっと見付かりました。引用します。
>
>  真の感動は読んだ後刺激されて自分なりの行動を始める時に初めていえるんじゃないか。刹那的に心を動かされて涙をこぼすのだったら、『E.T.』だってこぼすしね。(略)
>  だからまちがった感動っていうのはいくらでもあるんです(笑)。(手塚治虫 漫画の奥義)

 ありがとうございます。
 お手数をお掛けいたします。

 ただ・・・、これはやはり「感動」そのものの評価に、「作品評価」がかなり絡んでいる捉え方だと思います。

 「感動すること」は、本人の問題でありまして、客観的な作品の質とは、無関係だと思うのです・・・。(もちろん、ここで言います「感動」の評価は、上で私が書かせていただきました範囲で、であります。)

 それでは、またお伺いさせていただきます。
 失礼いたしました。
327 「あだち充」評、拝見させていただきました
 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/01(Thu) 03:17
   こんばんは。お邪魔させていただきます。

「あだち充」評、私も拝見させていただきました。
 ファーストインプレッションを書かせていただきますと・・・、私も概して同感に思います。

 特に「H2」評は、全くお書きになられましたその通りだと思います。
 ただ、私も最終的な結論は保留しています。
 と言いますのは、一連のあだち作品は、週刊連載を毎週読んで行くよりも、まとまったものを一度に通して読むのが適当な作品だと思っているからです。
(ですが、今の時点での評価は・・・。)

「H2」は、本来、氏が書きたかった野球漫画を、そのまま好きなように示したものなのではないでしょうか。
 あれだけの剛速球など、今や他の野球漫画ではとても描かれていません。
 ただ、これは少年誌の読者層を意識したものであることは、間違いないと思います。

「タッチ」が最高傑作だというご評価も同感です。
 ただ、達也は「頑張らない男」なのではなく、最初から最後まで、「(自分のためには)頑張らない男」であったと思います。

 後ですが、私は「日あたり良好」と「ラフ」も好きでした。
 ただ、ラフはまさに「タッチ」と「H2」の過渡期的な作品だったと思います。

 少女漫画誌から移ってこられて、「ラフ」→「虹色」→「H2」といいました流れは、まさに少年誌の読者層に対応した作風の変化だと言っても良いかと思います。
 (私は、正直申し上げまして、この変化はあまり評価できませんし、残念に思っています・・・。)

 では、またお邪魔させていただきます。

 (・・・ですが、私がお邪魔させていただくようになりましてから、掲示板の参加者が減ってしまったのではないでしょうか・・・。
 もしそうでしたら、大変申し訳ありません・・・。)

 乱文にて失礼いたしました。
 それでは、失礼いたします
328 神仏習合 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/02(Fri) 23:04
   どこまでを「感動」と捉えるかという話で、神道と仏教の関係を思い出しました。
 神道というのは、利己心や憎悪をも含め人間のあらゆる感情を、人間の根源的なエネルギーの発露として肯定するという考え方を持っているそうです。
(人を憎むのが素晴らしいという意味ではありませんので念のため。)
 つまり神道の説いているのは「向日性」。
 それに対し仏教の説いているのは「善悪」。
(その善悪が世間的な分別といったレベルのものでないこともまた言うまでもありません。)
 ある時期日本でなされた「神仏習合」はこれらの要素の融合を図るという側面があったというのです。

(イデオロギーを宗派で分類するというやり方は誤解を招きがちなので慎重にならねばなりませんが)感情の高揚という現象全てを肯定するという発想は神道的と言えなくはないし、更にその高揚の中身(質)まで検証するという発想は仏教的と言えるように思います。

 しかしそうした高揚(感動)を、質的な面と切り離して考えねばならないという理屈は、残念ながらよく理解できませんでした。
「感動とは絶対的なもの」というのも頷けなくはないのですが、その高揚が魂のどれだけ深い部分が刺激されてのものであるかという点がなぜ別問題になってしまうのかいまだによくわかりません。
 感覚的で説得力に欠ける言い方であるのを承知で付け加えるなら、「間違った感動」の多くは魂の深い部分が共鳴したものではなく、「甘え」の部分が共鳴して生じるものであるとも思っています。

 以下、簡単にフォロー等入れます。

>  以前、お返事はいつでも結構です、と書かせていただきましたのにも関わらず、私の方がワンテンポもツーテンポも遅らせてしまいまして、大変失礼致しております。

 いえ、私ヒマですから。私のペースに合わせたら破滅します。
(あるネット仲間に「連絡よこせ」と悪態ついたら「忙しいんじゃ」と怒られた。)

> >  人間を本来あるべき姿から遠ざける「感動」は誰がなんと言おうと間違ってます。
> >  このような感動は私は断固として否定します。

>  もちろん私から見ましても、これらの例のようなケースで「感動」を得る事は、おそらくあり得ないでしょう。

 ??。このコメント、ちょっと意味がわかりませんでした。
 まさか「自分をダメにするような感動は自分は絶対しない」という意味……のわけはないですよね。

>  「人物描写の深さ」ですが、全40話、20時間以上の長編である分、2時間ちょっとの短編映画作品よりも、時間的に多くのことを語り得る、と言いますのは暴言でしょうか・・・(苦笑)。

 暴言です!
 話の長さは語り方の違いに過ぎません。
 4コマ漫画や1コマ漫画にだって人間の矛盾や社会の矛盾を鋭く突くことができるし、またその短さゆえに力を持つことも間違いなくあるからです。
 小説にも「ショート・ショート」というジャンルがあり、「ショート・ショートより長編小説の方が多くのことを語り得る」という評価はありえないことです。
 詩に至っては、ほんの数行の内にその人の人生全てが凝縮されているかのようなものもあります。
 またある劇作家はある歌手を評し「私が1時間かけて表現することを、彼は3分でやってしまう」いう風に語ってもいます。

 物語の長短は、克明に語るか凝縮して語るかの違いに過ぎないのではないでしょうか。
 但し「時間的に多くのことを」というのが「克明に」という意味であるなら異存はありません。或いは複数のテーマを持った作品であればそれだけ長大なものになるということならば頷けなくもありません。
 しかし「長さと奥深さが比例する」といった意味だとしたら同意しかねます。

> >  知識や見識は、感受性を鈍らせたり歪ませたりすることもあるけれど、一方では作品の本質をより的確に捉える助けとなることもあるという捉え方が妥当ではないでしょうか。
>
>  ご指摘のこの部分ですが、私も全く同感です。
>  ですが、今回ご指摘になられています「感動」の質に付きましてのご意見は、まさにこの「知識や見識」のもとに価値判断されているのではありませんでしょうか・・・。

 感動の質に対する客観的な評価としてはそうです。
 しかし感動そのものの質が「知識や見識」に常に正比例するといった主張は私はしていません。

> >  真の感動は読んだ後刺激されて自分なりの行動を始める時に初めていえるんじゃないか。刹那的に心を動かされて涙をこぼすのだったら、『E.T.』だってこぼすしね。(略)
> >  だからまちがった感動っていうのはいくらでもあるんです(笑)。(手塚治虫 漫画の奥義)
>
>  ただ・・・、これはやはり「感動」そのものの評価に、「作品評価」がかなり絡んでいる捉え方だと思います。

 手塚治虫が言っているのは「涙を流したからと言ってその涙を全て一緒くたにすべきではない」ということであり、作品評価というものが取りたてて重視された言葉のようには私には感じられません。


 それから「あだち漫画の美点と限界」読んでいただきありがとうございます。
 と礼を述べた先からけちを付けてしまうのは気がひけなくはありませんが、

>  ただ、達也は「頑張らない男」なのではなく、最初から最後まで、「(自分のためには)頑張らない男」であったと思います。

 この「最後まで」というのは疑問です。
 達也の自立の物語なのに最後まで自分のために頑張らなかったら自立にはなりません。
 最後に達也が「頑張った」のは南のためじゃないですよ。
 もしそうだとしたら「南を甲子園に連れて行く」から何ら進歩してないことになってしまいます。
(この漫画、そのあたりの描写はわかりにくいものではあったと思います。)

>  少女漫画誌から移ってこられて、「ラフ」→「虹色」→「H2」といいました流れは、まさに少年誌の読者層に対応した作風の変化だと言っても良いかと思います。

 あら、あだち充はかなり早い時期から少年漫画と少女漫画を両立していたはずです。
「ナイン」「みゆき」「タッチ」は少年漫画、「陽あたり良好」「スローステップ」は少女漫画。
 これら時期的に重なるものがかなり多いです。
 私の印象としてはあだち充という人は、読者層を意識して手を変え品を変えといったことをする作家ではないような気がします。
 初期はそれをやっていたようですが、「ナイン」あたりから自然体で書いていると本人もコメントしています。
 そのあたりは結構ストイックな人で、単純に描きたいように描いているだけではないでしょうか。
「H2」についても、「久し振りに野球漫画が描きたくなった」といった程度の気持ちで描かれているように私には見えます。
 しかしこれらは特に根拠のない印象に過ぎないので、実際のところは本人に聞いてみないことにはわからないですね。

>  (・・・ですが、私がお邪魔させていただくようになりましてから、掲示板の参加者が減ってしまったのではないでしょうか・・・。
>  もしそうでしたら、大変申し訳ありません・・・。)

 もともと投稿の多い掲示板ではありませんからご心配なく。
 むしろ投稿のたびに「面目ない」とか「申し訳ありません」とか謝罪の言葉があると掲示板が非常に陰気になってしまうので、そちらの方が困りものです。
 あ、そうか。これがいどっちさんの荒らしの手口か。ゆるせん!(お約束)
329 謝罪 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/03(Sat) 01:19
   こんばんは。
 お邪魔させていただきます。

> (イデオロギーを宗派で分類するというやり方は誤解を招きがちなので慎重にならねばなりませんが)感情の高揚という現象全てを肯定するという発想は神道的と言えなくはないし、更にその高揚の中身(質)まで検証するという発想は仏教的と言えるように思います。

 なるほど、このお話は初めてお聞きしました。
 ただそうしますと、私の意見はずいぶんカオス寄りということになってしまいますね・・・(苦笑)。

>  しかしそうした高揚(感動)を、質的な面と切り離して考えねばならないという理屈は、残念ながらよく理解できませんでした。
> 「感動とは絶対的なもの」というのも頷けなくはないのですが、その高揚が魂のどれだけ深い部分が刺激されてのものであるかという点がなぜ別問題になってしまうのかいまだによくわかりません。
>  感覚的で説得力に欠ける言い方であるのを承知で付け加えるなら、「間違った感動」の多くは魂の深い部分が共鳴したものではなく、「甘え」の部分が共鳴して生じるものであるとも思っています。

 いえ、ただ私は、質的にどのようなものであれ、とりあえず「感動した」という事実を否定したくはないだけなのです。
 「感動」の後に、果たしてその「感動」の正しい理由、意味を捉えることは可能なのでしょうか。

 「間違っている」と否定しますことは、その「感動」を全て客観的に分析できなければ判断できないことだと思います。
 もちろん、その意味について考えようとしますことは、自分について知ろうとする、また作品について知ろうとすることですので、大変意味があると思います。

 ただ、その意味を断定することは非常に難しいのです。
 ならば、これらを分けて考え、自分の感動を事実として認めた上で、その内容(質)について改めて分析を試みるという流れが自然であるのでは、と考えたのです。

>  いえ、私ヒマですから。私のペースに合わせたら破滅します。
> (あるネット仲間に「連絡よこせ」と悪態ついたら「忙しいんじゃ」と怒られた。)

 私も暇な身ではありあますが・・・、恐縮です。

> > >  人間を本来あるべき姿から遠ざける「感動」は誰がなんと言おうと間違ってます。
> > >  このような感動は私は断固として否定します。
>
> >  もちろん私から見ましても、これらの例のようなケースで「感動」を得る事は、おそらくあり得ないでしょう。
>
>  ??。このコメント、ちょっと意味がわかりませんでした。
>  まさか「自分をダメにするような感動は自分は絶対しない」という意味……のわけはないですよね。

 いえ、「自分をダメにするような(あらゆる)感動」をしない、と申し上げているのではなく、ご呈示されました例、すなわち、

 「口先だけで「かわいそう」と涙を流す」
 「真珠湾攻撃に狂喜(感動)した」
 「人の失敗を笑う、容姿を笑う、境遇を笑うetc.etc.」

 に付きましては、私はそういった面で「感動(笑い)」はしないと思いまして、書かせていただきました。
 (すみません。最後の「etc.etc.」は見落としていました(苦笑)。)

 ただ、ご指摘のように、少々軽率な書き方でありましたと思っております。
 (悪質な「笑い」は特にありそうです。)

> >  「人物描写の深さ」ですが、全40話、20時間以上の長編である分、2時間ちょっとの短編映画作品よりも、時間的に多くのことを語り得る、と言いますのは暴言でしょうか・・・(苦笑)。
>
>  暴言です!

 すみません。私もそう思います・・・(苦笑)。
 たとえ長編でありましても、その長さを生かして「克明に語」られている作品の存在は稀だと感じています。

> >  ですが、今回ご指摘になられています「感動」の質に付きましてのご意見は、まさにこの「知識や見識」のもとに価値判断されているのではありませんでしょうか・・・。
>
>  感動の質に対する客観的な評価としてはそうです。
>  しかし感動そのものの質が「知識や見識」に常に正比例するといった主張は私はしていません。

 はい、もちろん了解しておりますが・・・。

> >  ただ・・・、これはやはり「感動」そのものの評価に、「作品評価」がかなり絡んでいる捉え方だと思います。
>
>  手塚治虫が言っているのは「涙を流したからと言ってその涙を全て一緒くたにすべきではない」ということであり、作品評価というものが取りたてて重視された言葉のようには私には感じられません。

 なるほど・・・。
 私は、作品の作り手がある作品について語る場合、その評価を意識した言葉になるのは必然だと思っていましたのです・・・。

> >  ただ、達也は「頑張らない男」なのではなく、最初から最後まで、「(自分のためには)頑張らない男」であったと思います。
>
>  この「最後まで」というのは疑問です。
>  達也の自立の物語なのに最後まで自分のために頑張らなかったら自立にはなりません。
>  最後に達也が「頑張った」のは南のためじゃないですよ。
>  もしそうだとしたら「南を甲子園に連れて行く」から何ら進歩してないことになってしまいます。
> (この漫画、そのあたりの描写はわかりにくいものではあったと思います。)

 すみません。
 実はあまり考えずに書いてしまいまして、正直後から「しまった」と思いました。
 大変軽率でした。
 確かにご指摘の通りです。

 ただ、和也が野球で活躍していたとき、「なぜ」達也は頑張らなかったのか、といいます部分は難しいかと思いますが・・・。

> >  少女漫画誌から移ってこられて、「ラフ」→「虹色」→「H2」といいました流れは、まさに少年誌の読者層に対応した作風の変化だと言っても良いかと思います。
>
>  あら、あだち充はかなり早い時期から少年漫画と少女漫画を両立していたはずです。
> 「ナイン」「みゆき」「タッチ」は少年漫画、「陽あたり良好」「スローステップ」は少女漫画。
>  これら時期的に重なるものがかなり多いです。

 はい、この部分も思慮に欠けた書き込みでした。
 確かにご指摘の通りです。

>  私の印象としてはあだち充という人は、読者層を意識して手を変え品を変えといったことをする作家ではないような気がします。
>  初期はそれをやっていたようですが、「ナイン」あたりから自然体で書いていると本人もコメントしています。
>  そのあたりは結構ストイックな人で、単純に描きたいように描いているだけではないでしょうか。
> 「H2」についても、「久し振りに野球漫画が描きたくなった」といった程度の気持ちで描かれているように私には見えます。
>  しかしこれらは特に根拠のない印象に過ぎないので、実際のところは本人に聞いてみないことにはわからないですね。

 なるほど・・・、そうでしたか。
 私は漫画作品も、これまで「作品評価」の観点で考えたことは、あまりありませんでした。
 あだち氏の作品は私にとりまして、凄く面白い漫画、でありましたことは事実です。

 ただ、作品的に考えてみますと、「タッチ」以外はなかなか判断するのは難しいです・・・。
 「タッチ」が、氏の他作品と違う最大のポイントは、和也が亡くなってしまった点であったと思います。
 (・・・ここは非常に書くのが難しいですので、逃げさせていただきますが(苦笑)。)

 「H2」は、今の時点での私の印象は、ほとんど先が見えてしまった、という感じです。
 果たして・・・、どうなるでしょうか。

>  もともと投稿の多い掲示板ではありませんからご心配なく。

 そうなのでしょうか・・・。
 気になりましたもので・・・。

>  むしろ投稿のたびに「面目ない」とか「申し訳ありません」とか謝罪の言葉があると掲示板が非常に陰気になってしまうので、そちらの方が困りものです。
>  あ、そうか。これがいどっちさんの荒らしの手口か。ゆるせん!(お約束)

 なるほど・・・、コメントの部分部分で私の考えをはっきりとお伝えしたかったので、こういう構成になってしまいました。
 今後は考えてみます。

 それでは、またお伺いします。
 失礼いたしました。
330 すごい・・・ 投稿者:イカスミス 投稿日:99/07/04(Sun) 00:43
   長いカキコにちょとびっくりっす
 自分は信念っていうか、自分っていうのをこの歳にもなって見つけてないし「なにをしゃべれ」って言われたときになにもない自分なのでなにも喋り出せなくて困るときがあるんっすよね・・
 すいません〜つい愚痴っちゃったっす・・