99.7.499.7.12

331 今回はひとりごとから 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/04(Sun) 01:43
   ウィンドウズの市販マニュアル曰く
「アプリケーションのコマンドはみな画面上にあるのにタスクバーだけ下にあるのは不自然。」
 マック派が喜ぶこと請け合いのこの記述、しかし一理ある。
 
 が、しかしだ。
 その一方で画面上部に度々目をやるのは目にはよくない。
 パソコンに向かっていて自然に目が行くのは画面下部なのだ。

 そこで考え出しましたるは「ツールバーを画面下に配置しよう作戦」。
 いや、やってる人たくさんいるかも知れないけど。

 やってみるとすこぶる使い辛い。でもしばらくこれでやってみよう。
 しかしインターネットエクスプローラー5のバーを下に置けないのはなぜだ。


 以下いどっちさんへのレスです。

>  「感動」の後に、果たしてその「感動」の正しい理由、意味を捉えることは可能なのでしょうか。

 完全にはむりでしょうね。
 けれども一定の分析の下に価値判断をすることにさして問題があるとも思えないのですが……。

>  ならば、これらを分けて考え、自分の感動を事実として認めた上で、その内容(質)について改めて分析を試みるという流れが自然であるのでは、と考えたのです。

 うーん、違いがよくわかりません。
 わかりませんと言ってしまったら話が止まってしまうのですが……うーん、わかりません。

> >  達也の自立の物語なのに最後まで自分のために頑張らなかったら自立にはなりません。
>
>  実はあまり考えずに書いてしまいまして、正直後から「しまった」と思いました。

 あら、ではここは同意見ということですね(笑)。

>  ただ、和也が野球で活躍していたとき、「なぜ」達也は頑張らなかったのか、といいます部分は難しいかと思いますが・・・。

 私の考える理由は以下のようなごくごく単純なものです。

1.怠け者だから。
2.照れ屋だから。
3.和也に追い着く自信がなかったから。

 そして同時に、心のどこかでは常に「頑張る」きっかけを探していたのではないでしょうか。
 ちなみに私が頑張らない理由は1です(自信満々)。

>  ただ、作品的に考えてみますと、「タッチ」以外はなかなか判断するのは難しいです・・・。
>  「タッチ」が、氏の多作品と違う最大のポイントは、和也が亡くなってしまった点であったと思います。

 これ、作者は「やけ起こして殺っちゃった」なんて言っているんですが、実は連載を始めた時から決めていたという説もあるんですね。
 タイトルが「タッチ」でしょう。
 つまり和也を殺して達也に「タッチ」という(笑)。
 達也を発奮さすにはそのくらいせにゃ!(ひどい)

>  「H2」は、今の時点での私の印象は、ほとんど先が見えてしまった、という感じです。

 展開への期待感が薄れているというのは同感です。
 もとより人物描写にさほど力の入ってもいない物語ですから、これは大きなマイナスですね。

> >  もともと投稿の多い掲示板ではありませんからご心配なく。
>
>  そうなのでしょうか・・・。

 3週間投稿がなかったのが今までの最高記録です(号泣)。


 イカスミスさん、こちらではごぶさたです。
 動物王国の掲示板は荒らしなのかどうかよくわからない投稿がたまにありますね(笑)。
 ええと、信念は私もこれと言って持ってないです。
 その代わり狭い価値観に凝り固まるのは大得意です(エッヘン)。
332 「タッチ」 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/04(Sun) 23:31
   こんばんは。
 お邪魔させていただきます。

>イカスミスさん

 はじめまして。
 いつも加藤さんのプロレス系のHPに参加させていただいております、いどっちと申します。
 こちらにも時々ですが、参加させていただこうとおもっております。
 どうぞよろしくお願い申し上げます。

 それから、私も「信念」は特にありませんし、「自分」も未だに全く見えておりません。
 これからの自分の見通しも、今の時点では見えて来そうにありません。
 (その証拠に、すぐに他のものの影響を受けてしまいます(苦笑)。)

 色々と経験を積んでいきますことで少しでも見えてこれれば、と思っております。

>  ウィンドウズの市販マニュアル曰く
> 「アプリケーションのコマンドはみな画面上にあるのにタスクバーだけ下にあるのは不自然。」
>  マック派が喜ぶこと請け合いのこの記述、しかし一理ある。
>  
>  が、しかしだ。
>  その一方で画面上部に度々目をやるのは目にはよくない。
>  パソコンに向かっていて自然に目が行くのは画面下部なのだ。
>
>  そこで考え出しましたるは「ツールバーを画面下に配置しよう作戦」。
>  いや、やってる人たくさんいるかも知れないけど。
>
>  やってみるとすこぶる使い辛い。でもしばらくこれでやってみよう。
>  しかしインターネットエクスプローラー5のバーを下に置けないのはなぜだ。

 おひとりごとへのコメントで恐縮ではありますが、(半端者ですが)マック派の私にもフォローさせて下さい。

 加藤さんのご指摘の通り、上から下に目を動かす方が自然です。
 ですからまず、「プル『ダウン』メニュー」は、上にあった方が自然だと思います。
(むしろ、スタートボタンから、上にメニューがせり出して来ます方が、不自然かと・・・。)

 ですので、操作性(マウスの移動範囲)を考えまして、「ツールバー」も「メニューバー」と同じく、上にあった方がよろしいかと思います。

 ただし、タスク切り替えの為のボタンが下にありますのだけは支持できます。

 タスクの切り替えは、個別のアプリの操作とは無関係ですから。
 マックの場合は、タスク切り替えも、(OSのデフォルトでは)メニューバーからのプルダウンメニューでの操作ですから、2ステップのマウスアクションが必要です。
 タスクバーのボタンの場合は、1ステップ操作ですし大変便利です。
(他のGUI系OSやシェルでも、タスク切り替えにはボタンを設けています場合が多いですし。)

 ただ、Windowsのその他の部分の操作系には、疑問も多いのですが・・・

> >  ならば、これらを分けて考え、自分の感動を事実として認めた上で、その内容(質)について改めて分析を試みるという流れが自然であるのでは、と考えたのです。
>
>  うーん、違いがよくわかりません。
>  わかりませんと言ってしまったら話が止まってしまうのですが……うーん、わかりません。

 私は、どんな種類のものでありましても、「感動」そのものを否定してしまうことに違和感を感じるのです。
 「間違った」感動をしますことは、本当に無意味なこと(また、一元的に悪い意味を持ったこと)なのでしょうか。

 「感動」は、言うまでもなく、人間が持つ素晴らしい心の振る舞いの一つです。
 「間違った」感動を否定しました結果、(実際は不可能かもしれませんが、)それら以外の(正しい)感動しかしなくなったとしまして、それは本当に自然な状態なのでしょうか・・・。

 また、その判断を、「善悪」といいました表面的かつ客観的な価値判断で行ってしまいますのは、少し危険では、とも思います。
 私の申し上げたいことはこんなところなのです。

> >  ただ、和也が野球で活躍していたとき、「なぜ」達也は頑張らなかったのか、といいます部分は難しいかと思いますが・・・。
>
>  私の考える理由は以下のようなごくごく単純なものです。
>
> 1.怠け者だから。
> 2.照れ屋だから。
> 3.和也に追い着く自信がなかったから。
>
>  そして同時に、心のどこかでは常に「頑張る」きっかけを探していたのではないでしょうか。

 1.の「怠け者」につきましてですが、私は「本質的に」怠け者な人は少ないと思っています。
 結局、環境、その他の要因によりまして、結果的に「怠け者」になってしまうのだと思うのです。

 ・・・それはさておき、私も加藤さんのご意見に同感です。

 ただ、後一つ、「和也への遠慮」もありましたかと思います。
 (先の投稿で、私はこれを申し上げたかったのでした。)

>  ちなみに私が頑張らない理由は1です(自信満々)。

 そんなこと、おっしゃられましても・・・(苦笑)。

> >  「タッチ」が、氏の多作品と違う最大のポイントは、和也が亡くなってしまった点であったと思います。
>
>  これ、作者は「やけ起こして殺っちゃった」なんて言っているんですが、実は連載を始めた時から決めていたという説もあるんですね。
>  タイトルが「タッチ」でしょう。
>  つまり和也を殺して達也に「タッチ」という(笑)。

 ・・・このご指摘、素晴らしいです(笑)。
 それに、「達也」だから「タッチ」といいますのにも、このコメントを拝見しまして、今初めて気が付きました(苦笑)。
(正直、題名について考えましたことは、今までありませんでした・・・。)

 ですが、もし話が行き詰まったから死なせてしまったのでありましたら、あんまりだとも思えますが・・・。
(そう言いますと、ひかりの母親が亡くなった事も、物語として、(今の時点での私の考えでは、)あまりに安易であったと感じます。)

 それでは、またお伺いさせていただきます。
 失礼いたしました。
333 閉館間近 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/05(Mon) 23:36
   明日は東京都美術館に行きます。でも雨降るかもなあ。

>  加藤さんのご指摘の通り、上から下に目を動かす方が自然です。

 ああ、私が言ったのは画面上部を見るより下部を見る方が伏し目になるから負担が軽いということです。
 でも言われてみれば確かに下から上という動きは不自然ですね。

>  ですからまず、「プル『ダウン』メニュー」は、上にあった方が自然だと思います。
>  (むしろ、スタートボタンから、上にメニューがせり出して来ます方が、不自然かと・・・。)
>  ですので、操作性(マウスの移動範囲)を考えまして、「ツールバー」も「メニューバー」と同じく、上にあった方がよろしいかと思います。

 手元のマニュアルで槍玉に上がっていたのはまさしくスタートボタンです。
「どうしてこれだけ下から上なんだ」と。
 ちなみに私はメニューバーはツールバーと同じく下に配置してます。


 さてこちらの話、どうも完全に堂々巡りしているような……。

>  私は、どんな種類のものでありましても、「感動」そのものを否定してしまうことに違和感を感じるのです。
>  「間違った」感動をしますことは、本当に無意味なこと(また、一元的に悪い意味を持ったこと)なのでしょうか。
>
>  「感動」は、言うまでもなく、人間が持つ素晴らしい心の振る舞いの一つです。

 前にも言ったように、「本物の感動」と「間違った感動」をはっきり線引きすることなど不可能です。
 したがって「一元的に悪い」ものというのはまれだろうと思います。
 しかし上質の感動によってきれいな気持ちになったとしても、まるっきり濁りがないというのはありえないことです。
 特に前に例示した「口先だけで『かわいそう』と涙をこぼす」といったものは、恐らく殆どの人が多かれ少なかれ陥っているものです。
(だから「そうした感動は自分にはありえない」という言葉には仰天しました。後で「軽率な書き方だった」とフォローが入って安心しましたが。)
 自分の甘えの部分(あるいは偏見、エゴ)が作品に共鳴して「感動」し、その甘えに拍車を掛けることは素晴らしいでしょうか。
 そうした感動を「醜い」と評するのと、憎悪を「醜い」と評するのと、どこに違いがあるのかわかりません。

 また神仏習合について補足すると、両者の教義は決して相対するものではありません。
「融合」はあくまで教義を補完するための作業で、「どちらが正しい」という議論も恐らく交わされてはいないでしょう。
 考え方が違うのではなく、考え方の角度が違うのに過ぎないということです。
 憎悪だって神道的に見れば「美しい」、仏教的に見れば「醜い」となります。
 そしてこの両者の価値観は決して対立してはいません。

>  「間違った」感動を否定しました結果、(実際は不可能かもしれませんが、)それら以外の(正しい)感動しかしなくなったとしまして、それは本当に自然な状態なのでしょうか・・・。

 この一文、間違った感動を「否定(批判)」することと、間違った感動を「しない」ということを混同しているように見受けられますが。
 だとしたら私の主張から著しくかけ離れています。
 私の言うところの「正しい感動」しかしなくなったら神様です。

>  また、その判断を、「善悪」といいました表面的かつ客観的な価値判断で行ってしまいますのは、少し危険では、とも思います。

 善悪=表面的、客観的というのは??です。
 社会のルールであるとか分別であるとか、そうした基準による善悪ならば確かにそうかも知れませんが。
 私は善悪というものは究極的には人間の魂の中にあるものと思っています。
(善悪を語り出したら一生かかっても終わらないので突っ込んだ議論はご勘弁願います。)
334 加藤隊長に質問 投稿者:石焼ビビンバ 投稿日:99/07/06(Tue) 20:32
   お久しぶりです。
 7/22の渋谷・クラブ「クアトロ」に行かれると思うのですが、ここはオールスタンディングの様子。

Q1.「しみじみ隊」としては、どのような姿勢(コンセプト及び
   具体的なスガタ)で臨めばよろしいのでしょうか?
Q2.オフ会を企画されていると小耳にはさんだのですが、
   もし決まっていれば、概要を教えてください。

 息子もそろそろオヤジに付き合ってくれなくなり、古い昔の彼女(注1)を連れて行くのもイヤだし、業務命令で会社のオンナノコにでも付き合ってもらうか(注2)ナンゾと悩んでいます。
 渋谷でお会いできることを楽しみに---。
 注1:女房
 注2:最も嫌われる、サイテー
 注他:7/22に行われる「ディアマンテス」のコンサート
    について、でした。皆さんも、ぜひいらしてください。
335 ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/07(Wed) 00:51
   またもや誰も反応しそうにない話題。
 東京都美術館に行って参りました。

 11:45到着。チケットを購入し会場へ向かうとそこには行列。
 早い時間の方が空いているだろうと思ってこの時間に来たのになんじゃこれは。平日だというのに。
 12:00入場。
 17〜20世紀までのフランスの絵画77点プラスαを展示。

 パッと見キレイだとかカラフルだとか写実的だとか、そいうものにばかり目を奪われる者としては、コロー、ブーダン、マネ、モネと豚に真珠でごわした。もったいない。
 しかしルノワールはおおいに堪能。
 あちこちで「ルノワールだ」の歓声。やっぱり人気あるのね。
 自分がもろに最大公約数的な鑑賞者であることを実感。
 だがいいものはいい。

「おもちゃで遊ぶ子供−ガブリエルと画家の息子ジャン」など、画集ではどこがいいのかさっぱりわからなかったが実物を見ると、ルノワールが一介の家政婦に過ぎないこの女性をモデルになぜ何枚もの絵を描いたのかわかるような気がした。
 子供に寄り添う母親役たるガブリエルの様子たるや何と言ったらいいのか、もう。

 ルノワールとガブリエルとの間にこんなやりとりがあったそうな。
「あら、先生!あたしオリーヴの実をひとつ見つけたわ!」
「だって、ガブリエル、もうこの季節にオリーヴの実なんかありっこないよ……。山羊の糞さ、きっとそれは。」
「オリーヴかどうか、食べてみればわかるから……、あ、やっぱり先生のいうとおりだ、種がない!」

 セザンヌは静物画は苦手だが風景画は悪くなかった。
 モレはよかった。絵じゃなくて名前が。
 ドラン(だったかな)の能天気な色彩は何となく笑えた。
 ピカソは素通り。なにあれ。
(こんな感想、美術サイトの掲示板には絶対投稿できん。ファンの方ごめんなさい。)

 最後に順路を逆走してもう一度ルノワールを観て退場。
 やはり「おもちゃで遊ぶ子供」が今日のナンバー1。
(しかしネット仲間にはなぜかルノワール嫌いが多い。)

 大きな絵は間近で見るとバッチイし遠くから見ると人が邪魔だし、空いている時にじっくり観たいものよのう。
 途中休みたくても椅子は満席だし、ああ疲れた。

 13:20退場。
 入口を見るとガラガラ。なんでやねん。

 上野の駅ビルでラーメン食べて帰宅。

 さて問題。この中に「間違った感動」はいくつあるでしょう。


 ビビンバさん、ごぶさたです。
 クアトロには来ないのかな〜と気になっておりました。

> Q1.「しみじみ隊」としては、どのような姿勢(コンセプト及び
>    具体的なスガタ)で臨めばよろしいのでしょうか?

 早めに行って椅子を確保!と思っていたら椅子は全くないそうですね。
 困ったものです。かくなる上は、

1.体育座りで聴く
2.壁にもたれてしけた顔して聴く

のいずれかしかなさそうですね。

> Q2.オフ会を企画されていると小耳にはさんだのですが、
>    もし決まっていれば、概要を教えてください。

 なにしろ時間が遅いので、喫茶店でちょっとお喋りしましょうといった程度のものです。
 ご参加いただけるのでしたらメールでお知らせ下さいませ。
 ライブ終了後に近くで待ち合わせることになると思います。
336 「Zガンダム」は私にはかなり「面白い」です 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/07(Wed) 20:59
   こんばんは。お邪魔させていただきます。

 それにしましても・・・、HPの制作と申しますものは、何とも照れくさいものですね。
 私の雑文など、どなたのお役にも立ちそうにはありませんし・・・(苦笑)。
 これなら個人ページの色を消しまして、プロレス一本でいった方が良かったかもしれません。
 正直言いまして、やっぱり公開は控えたいです(笑)。
 (サーバを借りてしまいました手前、そんなことはできませんのですが・・・。)

 一番迷いましたのは、やはりタイトルでした。
 (結局、とりあえずは無難なものを選びまして、後で変更するつもりです。)

 それから、各種コメントですが、加藤さんの掲示板の紹介文、
「ご来訪の記念にどうぞ」に匹敵するような、名コメントは浮かび
ませんでした。
 (結局、これも無難な形で納めました。)

 完成の暁には、どうか忌憚のないご意見をお聞かせいただけましたら本当に幸いです。

>  ああ、私が言ったのは画面上部を見るより下部を見る方が伏し目になるから負担が軽いということです。

 「体に優しい」パソコンとの向き合い方が、色々なところで紹介されていますが、どこのコメントでも共通しています事項に、「目の高さは、ディスプレイの画面最上部よりも、上になるようにするのがよい」といいますのがありました。

 私も、それを守ってセッティングしていますので、いつも伏し目がちに画面を眺めています。
 (上から見下ろそうとしますと、背筋も伸びまして一石二鳥です。)

>  さてこちらの話、どうも完全に堂々巡りしているような……。

 私も実はそう思っております。
 元々、私の主張は非常に曖昧なものでしたので、正直申しまして説得力のある意見も、これ以上は出せそうにはありません。

>  自分の甘えの部分(あるいは偏見、エゴ)が作品に共鳴して「感動」し、その甘えに拍車を掛けることは素晴らしいでしょうか。
>  そうした感動を「醜い」と評するのと、憎悪を「醜い」と評するのと、どこに違いがあるのかわかりません。

 このあたりは、私も十分承知しておりますし、全く同感にも思います。
 ただ、感動の質を非難するのでしたらともかく、「感動すること」それ自体を否定することに違和感を感じましたのです。

 ですので、私は質的に問題のある感動を認めていますのではありません。
 ですが、「間違った」ものとして、問題外で却下されるような感動はないのでは、また、少なくとも質を論ずる以前に、感動したという事実そのものを否定することはあんまりのでは、と思いましたのです。

>  この一文、間違った感動を「否定(批判)」することと、間違った感動を「しない」ということを混同しているように見受けられますが。
>  だとしたら私の主張から著しくかけ離れています。
>  私の言うところの「正しい感動」しかしなくなったら神様です。

 いえ、私が申し上げたかったことは、「間違った」感動を否定するといいますことは、つまりそれがないものを理想とする事になるのでは、と思いましたからでした。

>  善悪=表面的、客観的というのは??です。
>  社会のルールであるとか分別であるとか、そうした基準による善悪ならば確かにそうかも知れませんが。
>  私は善悪というものは究極的には人間の魂の中にあるものと思っています。
> (善悪を語り出したら一生かかっても終わらないので突っ込んだ議論はご勘弁願います。)

 なるほど、私はまさにご指摘されました「社会的な価値判断」のような、かなりの割合で客観的な判断がされうる部分での「善悪」、のつもりで捉えておりました。
 確かにおっしゃる通りで、本質的な「善悪」は、そのような表面的なものではありませんかと思います。

 さて、「クワトロ」(?)で思い出しましたのですが、(強引ですみません、)再放送の「Zガンダム」ですが17話まで進みました。
 正直申しまして、凄く面白いと思います。
 すぐに次回がみたくなるような、そんな感覚をまたアニメで得られるとは、思ってもみませんでした。

 今の時点で(私にとりましては)面白さは抜群です。
 作品性につきましては、最終回を見ますまでは判断は控えるべきかと存じますので・・・。
 今度、名作の誉れ高い「逆襲のシャア」等も、一度観てみようかと思っております。

 それでは、またお伺いさせていただきます。
 失礼いたしました。
337 ホームページとは 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/08(Thu) 23:11
   教育NHKテレビ「3か月英会話」(木曜日7:10AM〜)。
 今月始まったのが電子メールの書き方!
 テキスト買っちゃおうかな。

>  それにしましても・・・、HPの制作と申しますものは、何とも照れくさいものですね。
>  私の雑文など、どなたのお役にも立ちそうにはありませんし・・・(苦笑)。

 ホームページは自分さえ楽しければいいのです!
 ところでホームページを開設して何ヶ月か経つと、でき映えへの不満が募って一旦全部消して1から作り直したくなって来るんですよ。
 さすがに実行するだけのエネルギーはありませんけど、そういう気持ちが周期的に襲って来ます。
 ある日突然何かが……というようないたずらをいつかやってみたいと思っているのですが、いいアイデアが浮かびません。

>  これなら個人ページの色を消しまして、プロレス一本でいった方が良かったかもしれません。
>  正直言いまして、やっぱり公開は控えたいです(笑)。
>  (サーバを借りてしまいました手前、そんなことはできませんのですが・・・。)

 羨ましいな、サーバー。ここのサイトは重くて重くて……。
 今夜プロバイダーに2度目の問い合わせメールを出しました。
 前回問い合わせた時の回答は「調査中です」(笑)。

>  一番迷いましたのは、やはりタイトルでした。
>  (結局、とりあえずは無難なものを選びまして、後で変更するつもりです。)

 ホームページのタイトルを変更すると、サーチエンジンの登録内容変更が面倒で面倒で(笑)。
 今のタイトル、もう変えたくなってます。
 メジャーなエンジン4つか5つ程度に登録すれば充分なのかも知れませんね。
 考えてみれば自分だってサーチエンジンは代表的なものしか使ってませんし。

>  「体に優しい」パソコンとの向き合い方が、色々なところで紹介されていますが、どこのコメントでも共通しています事項に、「目の高さは、ディスプレイの画面最上部よりも、上になるようにするのがよい」といいますのがありました。

 私はディスプレイを斜めに置くパソコンデスクを使っているので、目の位置が画面最上部よりも上という条件は満たしてますね。
 ただ距離的にちょっと遠いのが難点です。


> >  自分の甘えの部分(あるいは偏見、エゴ)が作品に共鳴して「感動」し、その甘えに拍車を掛けることは素晴らしいでしょうか。
> >  そうした感動を「醜い」と評するのと、憎悪を「醜い」と評するのと、どこに違いがあるのかわかりません。
>
>  このあたりは、私も十分承知しておりますし、全く同感にも思います。
>  ただ、感動の質を非難するのでしたらともかく、「感動すること」それ自体を否定することに違和感を感じましたのです。

 また「わかりません」の連発になってしまいますが、ここの「否定」はどういう意味なのでしょうか。
 私が今まで「否定」という言葉を「質的に問題がある」という意味で使って来たつもりです。
「それ自体を否定する」というのがどういう意味なのか、今ひとつ理解できずにいます。

 もしかしたら何日か前の私の「その感動は所詮錯覚に過ぎません」というくだりについて言っているのでしょうか。
 だとしたらこう言い換えてみてはどうでしょう。
「その感動によって自分の人間性が高められたと感じるのは所詮錯覚に過ぎません」。

A氏「その感動は質的に問題がある。」
B氏「それは感動でもなんでもない。」

 この2つの表現は同義です。次にもっとわかりやすい例。

A氏「この寿司はまずい。」
B氏「こんなのは寿司じゃない。」

 これも同義ですね。B氏に対し「まずくても寿司は寿司です」と反論するのが無意味なのは言うまでもありません。

 つまり心の高揚全てを「感動」と定義するか、人間性を高めるものだけを「感動」と定義するかの違いに過ぎないのではないでしょうか。
 そしてこの定義の違いはその場限りの便宜上のものに過ぎず、A氏とB氏の思想自体が異なっているわけではありません。(異なるどころか全く一緒ですね。)

>  いえ、私が申し上げたかったことは、「間違った」感動を否定するといいますことは、つまりそれがないものを理想とする事になるのでは、と思いましたからでした。

 ……ない方がいいと思いますが??
 無論俗人には不可能ですが、少なくともより上質なものを追求するのが望ましいという考えには誰も異論を挟まないのではないでしょうか。
 まずい寿司は食べたくないし(笑)。
 ちなみにここの「否定」の意味もよくわかりませんでした。


 さてガンダムですが、ビデオの「ガンダム0083」というのがかなり面白いと聞いています。
 これは1年戦争の後日談だそうで、機会があれば観てみたいと思っています。
338 論理と意味 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/09(Fri) 22:33
   こんばんは。
 お邪魔させていただきます。

>  教育NHKテレビ「3か月英会話」(木曜日7:10AM〜)。
>  今月始まったのが電子メールの書き方!
>  テキスト買っちゃおうかな。

 それは、凄く良さそうですね!!
 そのテーマ名から推察しますと、テキストだけで(TVを見ませんでも)済みそうです。

>  ホームページは自分さえ楽しければいいのです!

 なるほど(笑)。
 ありがとうございます。
 私も自分が楽しみながら作れますようにしようと思います。

>  ある日突然何かが……というようないたずらをいつかやってみたいと思っているのですが、いいアイデアが浮かびません。

 それは面白そうです。
 そう言いますと、何も知らずにこちらにお邪魔した方は、そんな感覚を味わえますかもしれません(笑)。
(私のあのHP構成ですと、少し難しいかもしれませんが・・・。)

>  羨ましいな、サーバー。ここのサイトは重くて重くて……。

 ありがとうございます(笑)。
 ただ、遅くなってきましたときに、乗り換えにくいというデメリットもあるのですが・・・。

 こちらは、私が昨年頃お邪魔したときは、かなり早かった印象がありました。
 今は、(大変失礼ですが)おっしゃる通り、少し遅めだと思います。
 大阪と東京のODNのパイプが細いのかも、と思っておりましたが・・・。

>  ホームページのタイトルを変更すると、サーチエンジンの登録内容変更が面倒で面倒で(笑)。
>  今のタイトル、もう変えたくなってます。

 そうでしたか。
 やはり皆さん、タイトルではお悩みなのですね(苦笑)。
 このタイトルを初めて拝見しましたときは、私もかなり驚きました。
 (ある意味、納得もしてしまいましたが(笑)。)

>  メジャーなエンジン4つか5つ程度に登録すれば充分なのかも知れませんね。
>  考えてみれば自分だってサーチエンジンは代表的なものしか使ってませんし。

 私は、当面は登録は控えておくつもりでいます。
 (何も知らないお客さんが来られますと、がっかりさせてしまうかもしれませんから(苦笑)。)

>  私はディスプレイを斜めに置くパソコンデスクを使っているので、目の位置が画面最上部よりも上という条件は満たしてますね。
>  ただ距離的にちょっと遠いのが難点です。

 あっ、あのタイプのデスクをお使いなのですね。
 あの形のものは、目に与えます影響の面ではベストだと思います。

 さらに、画面が斜め上に向かっていますので、画面から照射される電磁波などが体に当たりにくく、上に逃げる効果もありますね。

 ディスプレイそのものに与えます影響も、何かの雑誌にありましたのですが、通常の利用レベルではほとんど(寿命などの)悪影響は無いそうです。

 私は今は、ホームエレクターといいます組立式のラックを使っています。
 もっとも、この春までここ数年の間は、間に合わせのちゃぶ台式のテーブルに載せていましたので、それはもう、かなり体に悪い環境でした(苦笑)。

>  また「わかりません」の連発になってしまいますが、ここの「否定」はどういう意味なのでしょうか。
>  私が今まで「否定」という言葉を「質的に問題がある」という意味で使って来たつもりです。
> 「それ自体を否定する」というのがどういう意味なのか、今ひとつ理解できずにいます。

 これは、「間違った」感動を「感動」としては認めません姿勢(つまり「こんなもの『感動』ではない」といいます姿勢)です。
 すなわち、まさに下でご指摘されています意味の通りであります。

>  もしかしたら何日か前の私の「その感動は所詮錯覚に過ぎません」というくだりについて言っているのでしょうか。
>  だとしたらこう言い換えてみてはどうでしょう。
> 「その感動によって自分の人間性が高められたと感じるのは所詮錯覚に過ぎません」。
>
> A氏「その感動は質的に問題がある。」
> B氏「それは感動でもなんでもない。」
>
>  この2つの表現は同義です。次にもっとわかりやすい例。
>
> A氏「この寿司はまずい。」
> B氏「こんなのは寿司じゃない。」
>
>  これも同義ですね。B氏に対し「まずくても寿司は寿司です」と反論するのが無意味なのは言うまでもありません。

>  つまり心の高揚全てを「感動」と定義するか、人間性を高めるものだけを「感動」と定義するかの違いに過ぎないのではないでしょうか。

>  そしてこの定義の違いはその場限りの便宜上のものに過ぎず、A氏とB氏の思想自体が異なっているわけではありません。(異なるどころか全く一緒ですね。)

 少々お待ち下さい。
 やはり、私にはご指摘の両者(A氏とB氏)の比較は、(もちろん理解はできますが、)納得できかねます部分があるのです。

 論理的には両者は明らかに同じではありませんし、意味的にも如何でしょうか・・・。

 例えば、ご指摘のお寿司の例ですが、A氏の、「この寿司はまずい。」です。
 ここでの「まずい」は、あくまでも「寿司の中では」まずいわけでして、評価の比較基準を「(色々な)寿司」として、評価していると思えます。

 つまり「この寿司は(『寿司としては』)まずい。」という意味だと考えます。

 2つの物事の評価の為には、両者の差違が着目点になるわけですが、当然のことながら、同時に、両者に共通点も存在しませんと、その評価は不可能です。

 二者を評価するのには、評価基準が必要だからです。

 A氏の方は、「相対的な」評価であり、B氏の方は、「絶対的な」評価であります。
 ここに決定的な意味の差があると考えます。

 ですので、両者は、論理的にも、(そして自動的に)意味的にも、違うものだと思えるのです。

 再掲させていただきますが、

>  つまり心の高揚全てを「感動」と定義するか、人間性を高めるものだけを「感動」と定義するかの違いに過ぎないのではないでしょうか。

 この箇所、まさにご指摘通りです。
 ですが、本当にこの両者は同一なのでしょうか・・・。

 ただ、この点以外に全く依存はございませんし、この問題も、単なる言葉の問題で、本質的な部分に影響しますものとはそれほど思えないのですが・・・。

> >  いえ、私が申し上げたかったことは、「間違った」感動を否定するといいますことは、つまりそれがないものを理想とする事になるのでは、と思いましたからでした。
>
>  ……ない方がいいと思いますが??
>  無論俗人には不可能ですが、少なくともより上質なものを追求するのが望ましいという考えには誰も異論を挟まないのではないでしょうか。
>  まずい寿司は食べたくないし(笑)。
>  ちなみにここの「否定」の意味もよくわかりませんでした。

 もちろん、ご指摘の通り、ない方が良いと思います。
 ある意味、実現不可能なことですからこそ、これを目指すことは私も望ましいと考えます。

 ですが、仮に「ない」事が実現してしまいますと、この状態は明らかに不自然です。
 「はっきりと」間違った感動を規定できない状態で、これを完全に消してしまうことを理想としますことは、おかしいと思いますのです。

 この部分も、「こんなもの『感動』ではない」といいますご意見が、腑に落ちません事の理由の一つであります。

>  さてガンダムですが、ビデオの「ガンダム0083」というのがかなり面白いと聞いています。
>  これは1年戦争の後日談だそうで、機会があれば観てみたいと思っています。

 ご紹介ありがとうございます。
 私もこの作品は存じています(「あらすじ」だけではありますが・・・)。

 ただ、確かOVAでしたと思います。
 さすがに初めて見ます作品を、いきなりビデオで購入しますことは、やや難しいですが・・・。

 正直申しまして、富野作品以外のガンダムですから、これまでは敬遠していた部分もありました。

 これは、私が昔から思っていたことなのですが、原作者以外が作品を勝手にアレンジすることは、どうかと思います。
 少なくとも、私の気に入っていました作品がそのような目に遭わされましたときは、これまで例外なく失望させられてきました・・・。

 藤子不二夫F氏以外のお書きになる「ドラえもん」など考えられません。
(お書きになっているのはお弟子さんらしいですが・・・。)

 このお話を書かせていただきますと、ものすごく長くなってしまいますので、このあたりで失礼させていただきますが、原作漫画とアニメの関係も同様だと思います。

 それでは、またお邪魔させていただきます。
 長文にて失礼いたしました。

 失礼いたします。
339 ノミが出た 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/10(Sat) 00:55
   足が猛烈に痒い。
 食われてから3日間は地獄なんだよなあ。
 ノミに1箇所食われるくらいなら蚊に10箇所刺された方がいい。
 ノミに食われた痒さに比べれば、蚊に刺された痒さなんて蚊の刺したほどにも感じません。
 というとても面白いギャグ。

>  こちらは、私が昨年頃お邪魔したときは、かなり早かった印象がありました。
>  今は、(大変失礼ですが)おっしゃる通り、少し遅めだと思います。
>  大阪と東京のODNのパイプが細いのかも、と思っておりましたが・・・。

 以前は確かに早かったです。今は表示に1分以上かかりますからね。
 ところでプロバイダーから問い合わせの返事が来ました。
「改善策が今現在具体的に検討されているのか、率直な所をお聞かせいただけないでしょうか」とズバリ聞いてみた所、
「機器側の手配等にも時間が掛かる状況でございまして、現在の所、具体的なメンテナンスの予定は未定となっております。」
とのことでした。

 こりゃ本格的に乗り換えを考えにゃならんかな。
 しかしそうするとまたエンジン登録の更新を……。

 さてこちらの話題ですが、私パニックしてます。

> > A氏「その感動は質的に問題がある。」
> > B氏「それは感動でもなんでもない。」

> > A氏「この寿司はまずい。」
> > B氏「こんなのは寿司じゃない。」

>  A氏の方は、「相対的な」評価であり、B氏の方は、「絶対的な」評価であります。
>  ここに決定的な意味の差があると考えます。
>
>  ですので、両者は、論理的にも、(そして自動的に)意味的にも、違うものだと思えるのです。

 !?!?!? 
 私はB氏のような言葉を額面通りに受け取ったことも、額面通りの意味で喋ったこともないです。
 B氏に「いいえ、シャリにネタが乗っているからそれは寿司です」なんて反論する人などいるでしょうか。
 ここに異論を唱えられたら私はもうお手上げです。

> > >  いえ、私が申し上げたかったことは、「間違った」感動を否定するといいますことは、つまりそれがないものを理想とする事になるのでは、と思いましたからでした。
> >  ……ない方がいいと思いますが??

>  ですが、仮に「ない」事が実現してしまいますと、この状態は明らかに不自然です。
>  「はっきりと」間違った感動を規定できない状態で、これを完全に消してしまうことを理想としますことは、おかしいと思いますのです。

 うーん、それを言ってしまったら、人生の究極の目的とも言われる「真・善・美」の追求だって不自然ということになってしまうのではないでしょうか。
 この世で絶対的な真、絶対的な善、絶対的な美の規定など可能でしょうか。
 こうした問題は最終的には全てプラトンの言うところの「魂が知っている」という甚だ非論理的なところに帰結するものと私は思っています。
 ひとつ例を挙げるなら、「1+1=2」これを完全に証明するのは不可能です。
 なぜなら「1とは何か」という質問に答えられる人はこの世にいないからです。
 学者はこう答えるそうです。
「数学とは、1とは何であるかをわかっていることを前提とした学問である。」

 これらを「おかしい」と言ってしまうのはニヒリズムでは……。

>  これは、私が昔から思っていたことなのですが、原作者以外が作品を勝手にアレンジすることは、どうかと思います。
>  少なくとも、私の気に入っていました作品がそのような目に遭わされましたときは、これまで例外なく失望させられてきました・・・。

 あら、宮崎駿の「カリオストロの城」など私は大好きですが。「未来少年コナン」だって大傑作だと思います。
 そのあたり、私はさほど気にしていません。 
 ただ、作品の本質を理解していない人が作ると悲劇ですね。映画版「タッチ」とか(笑)。
340 どうぞお大事に 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/10(Sat) 03:11
  >  足が猛烈に痒い。
>  食われてから3日間は地獄なんだよなあ。
>  ノミに1箇所食われるくらいなら蚊に10箇所刺された方がいい。
>  ノミに食われた痒さに比べれば、蚊に刺された痒さなんて蚊の刺したほどにも感じません。
>  というとても面白いギャグ。

 どうぞお大事になさって下さい。
 ギャグは・・・、なんとお答えすれば良いのでしょう・・・(苦笑)。

 ですが、私はノミにかまれた経験といいますのがありません。(おそらくは、かまれましてもそれがノミだということを知らなかっただけ、だと思いますが。)

>  以前は確かに早かったです。今は表示に1分以上かかりますからね。
>  ところでプロバイダーから問い合わせの返事が来ました。
> 「改善策が今現在具体的に検討されているのか、率直な所をお聞かせいただけないでしょうか」とズバリ聞いてみた所、
> 「機器側の手配等にも時間が掛かる状況でございまして、現在の所、具体的なメンテナンスの予定は未定となっております。」
> とのことでした。

 そうでしたか・・・。
 ただ大手ほど、確定事項以外の場合は、問い合わせましても公開しません部分が多いようですから、なかなか分かり難いのですが・・・。

>  こりゃ本格的に乗り換えを考えにゃならんかな。
>  しかしそうするとまたエンジン登録の更新を……。

 ぜひ、ドメインとレンタルサーバをお勧めさせていただきます(笑)。
 それは少し冗談ですが(失礼いたしました)、加藤さんのところ(内側)からでも遅いのでしたら、少し深刻ですと思います。
 確か初期費用でサーバスペースなしですから、ODNはあまりwebサーバには力を入れていないのかもしれません・・・。
 やはり、これからはwebサーバの専門業者の競争も激しくなるかと思います。

>  !?!?!? 
>  私はB氏のような言葉を額面通りに受け取ったことも、額面通りの意味で喋ったこともないです。
>  B氏に「いいえ、シャリにネタが乗っているからそれは寿司です」なんて反論する人などいるでしょうか。
>  ここに異論を唱えられたら私はもうお手上げです。

 う〜ん、考えてみますと、おっしゃる通りB氏に関しましてはご指摘の通りだと思います。

 ただ、私はこれまで、「こんなのは感動ではない」という表現には、その文字上の意味通りの受け止め方をしてきました。

 ただし、私のお書きします「感動」とは、心が動かされるような「現象」だけでなく、その「意味」(人間の持つ、素晴らしい心の振る舞い)までも含めていますつもりです。

 額面通りでしたら、「現象」だけを示すことになるかと思います。

 私の申します「感動」とは、それだけでなく一歩踏み込みまして、「感動」しますことの「意味」まで評価したいのです。
 そう言います意味では、「額面通り」とは、また少し異なるのですが・・・。

 ともかくこの問題は、言葉の問題によりますところが多いかと存じます。

>  うーん、それを言ってしまったら、人生の究極の目的とも言われる「真・善・美」の追求だって不自然ということになってしまうのではないでしょうか。
>  この世で絶対的な真、絶対的な善、絶対的な美の規定など可能でしょうか。
>  こうした問題は最終的には全てプラトンの言うところの「魂が知っている」という甚だ非論理的なところに帰結するものと私は思っています。
>  ひとつ例を挙げるなら、「1+1=2」これを完全に証明するのは不可能です。
>  なぜなら「1とは何か」という質問に答えられる人はこの世にいないからです。
>  学者はこう答えるそうです。
> 「数学とは、1とは何であるかをわかっていることを前提とした学問である。」

 確かにこれはおっしゃる通りだと思います。
 全く依存はございません。

 ただ、言い訳させていただきますと、私は近頃、こう言いました考え方は、全くしておりませんでしたのです。
(私が怠けていたのですが・・・(苦笑)。)

 「1+1=2」の根元的な意味を考えますのは・・・。

 私は、この場合、「1」も「2」も「+」も「=」も、すでに数学的定義の元に存在する表現であるとの見方をしてしまいます。
 (もちろん、哲学的見方も興味はありますのですが。)

>  これらを「おかしい」と言ってしまうのはニヒリズムでは……。

 いえ、そこまでは・・・どうかご勘弁下さい(苦笑)。

> >  これは、私が昔から思っていたことなのですが、原作者以外が作品を勝手にアレンジすることは、どうかと思います。
> >  少なくとも、私の気に入っていました作品がそのような目に遭わされましたときは、これまで例外なく失望させられてきました・・・。
>
>  あら、宮崎駿の「カリオストロの城」など私は大好きですが。「未来少年コナン」だって大傑作だと思います。
>  そのあたり、私はさほど気にしていません。 
>  ただ、作品の本質を理解していない人が作ると悲劇ですね。映画版「タッチ」とか(笑)。

 なるほど(笑)。
 私にとりまして、それは盲点でした。

 一つ気づきましたことは、これらの作品はアニメ版の制作者が、原作のイメージに無理に似せようとしていませんところ、でしょうか。

 お話は変わるのですが、これは先日耳にしましたことなのですが、宮崎氏は声優限定の声優を声優として、お使いにならないそうですね。(読みにくい文ですみません(苦笑)。)

 私は詳しい理由は存じていないのですが、これは素晴らしい事だと思います。

 それでは、またお伺いさせていただきます。
 失礼いたしました。
341 足の痒みが治まっている 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/11(Sun) 23:16
   ノミではなかったようだ。
 しかしこの季節に油断は禁物。こまめに掃除機をかけるべし。

>  ですが、私はノミにかまれた経験といいますのがありません。
>  (おそらくは、かまれましてもそれがノミだということを知らなかっただけ、だと思いますが。)

 体質によっては蚊に刺されたのとさほど違いは感じないかも知れません。
 私の場合は周囲の直径5センチくらいの範囲の皮膚がコチコチに腫れ上がって、食われた所の皮が破れて組織液(透明なアレです)が染み出て……。

> >  こりゃ本格的に乗り換えを考えにゃならんかな。
> >  しかしそうするとまたエンジン登録の更新を……。
>
>  ぜひ、ドメインとレンタルサーバをお勧めさせていただきます(笑)。
>  それは少し冗談ですが(失礼いたしました)、加藤さんのところ(内側)からでも遅いのでしたら、少し深刻ですと思います。
>  確か初期費用でサーバスペースなしですから、ODNはあまりwebサーバには力を入れていないのかもしれません・・・。
>  やはり、これからはwebサーバの専門業者の競争も激しくなるかと思います。

 3webなどはODNより安い上にCGIも使い放題と、金額的には申し分ないのですが、地域によってはテレホーダイタイムにまるっきり繋がらなかったりするらしく、ちょっとためらってしまいます。


>  ただし、私のお書きします「感動」とは、心が動かされるような「現象」だけでなく、その「意味」(人間の持つ、素晴らしい心の振る舞い)までも含めていますつもりです。
>
>  額面通りでしたら、「現象」だけを示すことになるかと思います。
>
>  私の申します「感動」とは、それだけでなく一歩踏み込みまして、「感動」しますことの「意味」まで評価したいのです。

 あれれ、以前いどっちさんは「『感動』と呼ばれます意識下での心の動きを、現象としてそのまま評価したい」と言っていたのに……。
 いどっちさんの基本的な主張がわからなくなってしまいました。
 うむむ……。

>  「1+1=2」の根元的な意味を考えますのは・・・。
>
>  私は、この場合、「1」も「2」も「+」も「=」も、すでに数学的定義の元に存在する表現であるとの見方をしてしまいます。

 いどっちさんの言うところの「哲学的」と「数学的」の違いがわからないのですが……。
 私の言わんとしているのは、あらゆる数学的定義というものは「1」という概念を基準になされており、その「1」については定義がないということです。
 だから「2」「+」「=」などは説明できても、「1」だけは説明不能ということなんです。

> >  あら、宮崎駿の「カリオストロの城」など私は大好きですが。「未来少年コナン」だって大傑作だと思います。

>  一つ気づきましたことは、これらの作品はアニメ版の制作者が、原作のイメージに無理に似せようとしていませんところ、でしょうか。

 それは言えると思います。
 宮崎駿は原作のルパンを評価しつつも、テレビや映画では原作のルパンを拒否してました。
「未来少年コナン」の原作についてははっきり「好きじゃない」と言ってますね。
 いずれの作品も、人物設定にちゃんと意味を持たせているというのが成功の由縁でしょうね。

>  お話は変わるのですが、これは先日耳にしましたことなのですが、宮崎氏は声優限定の声優を声優として、お使いにならないそうですね。(読みにくい文ですみません(苦笑)。)
>
>  私は詳しい理由は存じていないのですが、これは素晴らしい事だと思います。

 それは初耳でした。
 そう言えば一流声優と言われるある人が「声優などという職業はない。俳優の仕事のひとつに吹き替えがあるのに過ぎない」というようなことを言っていました。
 いわゆる「声優」には、職人的に役をこなしてしまうタイプの人が多く、却って奥深い表現ができないのかも知れませんね。
342 引用は 投稿者:f.h 投稿日:99/07/11(Sun) 23:20
   必要なところだけするものです。
 場合によっては省略すべきです。

 引用し過ぎるとただでさえ長い文章が読みにくくなり、場合によっては何を言っているのか(言いたいのか)分からなくなります。
 これは、パソコン通信時代からの常識です。
343 でたでたでたでた 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/12(Mon) 00:54
   ご帰還なによりです。
 ここでも女主人が待ってます(ウソ)。

> 必要なところだけするものです。

 はい。

> 場合によっては省略すべきです。

 なるほど。

> 引用し過ぎるとただでさえ長い文章が読みにくくなり、
> 場合によっては何を言っているのか(言いたいのか)
> 分からなくなります。

 ふむふむ。

> これは、パソコン通信時代からの常識です。

 勉強になります。

 いや、それよりも我々のやりとりを読んでいる(読もうとしている)人がいるということが驚きです。
「消し忘れ」というケースもありますゆえ、そこはご勘弁を。
(ログの整理の時にこっそり修正してしまう。)
344 残念ながら 投稿者:f.h 投稿日:99/07/12(Mon) 01:11
  >いや、それよりも我々のやりとりを読んでいる(読もうとしている)人
>がいるということが驚きです。

 私の場合、最初は読んでましたが、最近は全然読んでません。
345 またでたまたでた 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/12(Mon) 01:47
  > 私の場合、最初は読んでましたが、最近は全然読んでません。

 ヒヒヒ。
346 申し訳ありません。大変恐縮です。 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/12(Mon) 01:50
   こんばんは。
 お邪魔させていただきます。

 f.hさん、はじめまして。
 プロレス系HPで加藤さんにお世話になっております、いどっちと申します。

 ご指摘、誠に痛み入ります。
 正直申し上げまして、加藤さん以外の閲覧者の方々の存在が、頭から離れておりました。
 加藤さんでしたら、引用部分が長くともご自分でお書きになられました文章ですので、適度に読み飛ばしつつ目を動かしていただけると考えておりました。
 ですが、開かれた掲示板であります以上、第三者の方の読みやすさも考慮すべきでありました。
 また、ネットワークトラフィックの面でも、配慮に欠けた行為でありました。
 本当に申し訳ございません。
 今後、このようなことがありませんように、気を付けさせていただきます。
 また、ご指摘いただきまして本当にありがとうございました。
 今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 次は加藤さんへのコメントを書かせていただきます。

>  私の場合は周囲の直径5センチくらいの範囲の皮膚がコチコチに腫れ上
> がって、食われた所の皮が破れて組織液(透明なアレです)が染み出て……。

 ・・・ご説明いただきましてありがとうございます。
 理解いたしました、・・・ご勘弁下さい(苦笑)。
 (この手の虫さされは、私も経験がございました。)

> >  私の申します「感動」とは、それだけでなく一歩踏み込みまして、「感動」しますことの「意味」まで評価したいのです。
>
>  あれれ、以前いどっちさんは「『感動』と呼ばれます意識下での心の動
> きを、現象としてそのまま評価したい」と言っていたのに……。

 ご説明が大変下手で申し訳ありません。
 以前の言葉の使い方を踏襲しました書き方ではありませんでした。

 つまり・・・、以前申し上げました「現象としてそのまま評価したい」と言う部分ですが、このように評価することが、(前回にお書きしました)「感動の意味まで評価する」というつもりでありました。

 ですので、すでに申し上げました通り、前々回に加藤さんがお書きになられました、

>  つまり心の高揚全てを「感動」と定義するか、人間性を高めるものだけを「感動」と定義するかの違いに過ぎないのではないでしょうか。

 このご指摘に尽きると考えます。
 私はここでの後者の意見が腑に落ちないと考えておりますのです。

> >  「1+1=2」の根元的な意味を考えますのは・・・。
> >
> >  私は、この場合、「1」も「2」も「+」も「=」も、すでに数学的定義の元に存在する表現であるとの見方をしてしまいます。
>
>  いどっちさんの言うところの「哲学的」と「数学的」の違いがわからな
> いのですが……。

 ここも説明不足がございました。
 ですから、つまり「数学的」とは、「1」の存在、意味を認めました上で(前提として)、議論を進めるという意味であり、
 「哲学的」とは、「1」の意味を根本的に考える、と言う意味でお書きしましたのです。

 ですので、「数学的」とは、(「数」を取り扱うときに)一般に数学者の取る姿勢、「哲学的」とは、同様に哲学において問題とされる視点、を示しています。

>  いわゆる「声優」には、職人的に役をこなしてしまうタイプの人が多く、
> 却って奥深い表現ができないのかも知れませんね。

 なるほど・・・、確かにおっしゃる通りかもしれません。
 私は、業界の体質的なもので避けておられるのかも、と想像しておりました。

 それでは、またお伺いさせていただきます。
 失礼いたしました。
347 すみません・・・ 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/12(Mon) 02:02
   ・・・いえ、私は本当に、これまでの引用の仕方に思慮不足がありました。
 実は、これまで度々、どこまで引用しますか迷ったことありましたのです。

 加藤さんがいつもなさっておられます引用は、いつも本当に適切で、多すぎず、かつ説明も十分で、私が過去の投稿を読み返す必要が全くないものでありました。

 また、拙文をお読みいただいておられました事も(頭から離れていましたとはいえ、)非常に光栄に、また大変申し訳なく思っております。

 今後、掲示板に限らずあらゆる場所での投稿で、引用について十分な配慮を行えるように留意いたします。
 そして、今回のご指摘に心より感謝しております。
 どうぞ今回はお許しをお願い申し上げます。

 失礼いたしました。
348 HPのタイトル変わってるよ〜。 投稿者:ししゃも 投稿日:99/07/12(Mon) 11:04
   ししゃもです。
 おひさしぶり?

 でも、灰谷さんのページ増えてないよ…。
 それどころではないのであろうか…?
 なんだか哲学的な掲示板になってる(笑)?
 勉強になるよ。

 ますますのご活躍をお祈りしております…。
 ではまた!!
349 コソコソ…… 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/12(Mon) 23:17
   ししゃもさん、ごぶさたです。
 いやあ、実はアンナことやコンナことしてたもので、灰谷ページを更新できなかったんですよ。
 でもYahooに登録されたので許して下さい。
 で、ししゃもさんのホームページ開設はいつ??

 いどっちさん、なにもそこまで恐縮しなくても。

> >  私の場合は周囲の直径5センチくらいの範囲の皮膚がコチコチに腫れ上
> > がって、食われた所の皮が破れて組織液(透明なアレです)が染み出て……。
>
>  ・・・ご説明いただきましてありがとうございます。
>  理解いたしました、・・・ご勘弁下さい(苦笑)。
>  (この手の虫さされは、私も経験がございました。)

 そうですか。
 私はどうも皮膚があまり丈夫でないようで、猫を飼っていた頃は地獄でした。
 戦中戦後のようなノミや南京虫がうじゃうじゃという環境ではまず生き延びられなったのではないかと(笑)。
 南京虫は未体験ですが、さぞかし……。


>  つまり・・・、以前申し上げました「現象としてそのまま評価したい」と言う部分ですが、このように評価することが、(前回にお書きしました)「感動の意味まで評価する」というつもりでありました。

 ええと、つまり両者は同義ということですね。
 以前のいどっちさんの投稿に以下のようなコメントがありました。
――――――――
1.まさに「感動」を得たその一瞬、その「感動した」という事実だけを評価する場合。
2.「1.」に加えて「感動」を得た結果、その内容(つまり「質」)まで評価の対象に含める場合。

 のどちらのスタンスを取りますか、という話になってくるように思います。
 実は私は、「2.」を選択しますのに、まだ少しためらいがあるのです。
――――――――
 いどっちさんの主張がいつの間にか1から2に移行してしまったかのように私は受け取れたものですから、そこで混乱してしまったのです。
 正直、まだいどっちさんの言い分を把握できずにいるのですが、この投稿の最後に私の見解を整理しますので、それに対するご意見の要旨を改めて述べていただければ幸いです。

> >  つまり心の高揚全てを「感動」と定義するか、人間性を高めるものだけを「感動」と定義するかの違いに過ぎないのではないでしょうか。
>
>  このご指摘に尽きると考えます。
>  私はここでの後者の意見が腑に落ちないと考えておりますのです。

 ちょっと待って下さい。
 後者の定義は「こんなのは感動ではない」という、いわば「極論」を述べるための便宜上のもので、「意見」と呼べるようなものではありません。
 むしろ間違っているのを承知でなされた定義付けとも言えるのではないでしょうか。
「シャリにネタの乗っているもの全てを寿司と定義するか、おいしいものだけを寿司と定義するか。」
 後者が正しくないのは自明です。

>  ですから、つまり「数学的」とは、「1」の存在、意味を認めました上で(前提として)、議論を進めるという意味であり、
>  「哲学的」とは、「1」の意味を根本的に考える、と言う意味でお書きしましたのです。

 そういうことでしたか。ならば私の意見(というより受け売り)と一致してますね。
 数学は他の学問に比べ解答がはっきりしているというのが一般通念ですが、その根本(「1」)はやはり曖昧なものと言えるようです。


 さて、これまでの私の主張を整理するとこうなります。

「人間には間違った感動というものがある。」(手塚治虫)
「人間をだめにする種類の感動というものがある。」(上記の言い換え)
「間違った感動はない方がいい。しかし現実には完全になくすのは不可能。」

 現時点で見解の相違はどこにあるでしょう。
 わからなくなって来た(笑)。
 いどっちさんの意見は「間違った感動は認めたくない」(つまり感動はみな素晴らしい)がスタートになっていたように思いますが……。
350 ガンダム0083 投稿者:ぐり 投稿日:99/07/12(Mon) 23:27
   て、ビデオレンタルで見ました。買わなくても、アニメ充実したビデオレンタル店にはガンダムは一通りそろっているのでは。それに、あれも買うほどのものではないような気が...(^_^;
http://members.tripod.com/~kasutera