99.7.1299.7.27

351 (無題) 投稿者:f.h 投稿日:99/07/12(Mon) 23:35
   いどっちさん、はじめまして

 そんなに恐縮なさらなくてもいいのですが。ハイ
 ただ、どうしても気になったので、投稿させていただきました。
 一度二度くらいなら、別に気にもなりませんが、それが延々と続くと、読み手側はさすがにめげてしまいます。
 論より証拠、二人以外は誰一人反応しなかったですからね。

 と書いた私もやはり似たようなミスを過去に犯したことがある前科者です。
(^^;☆\(-_-)ばし

P.S.
ニフティのフォーラムは今でも引用に関してはうるさいです、ほんと。
352 連日の雨 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/13(Tue) 23:06
   今秋ゴダイゴが再結成されるそうな。
 94年に出たタケカワユキヒデのソロアルバムなどはちょっと甘ったるい印象があって今ひとつピンと来なかったが、どんな音楽を聴かせてくれるのやら。
 自分などは新曲よりも昔の人気曲に単純に喜んでしまいそうな気がする。
 そして挙句の果てに「昔の方がよかった」などと言い出しそう。
 こういうファンになってはいけません。

 だいぶ前に「散髪に行こう」と言っておきながらまだ行ってない。
 今日行くつもりだったが雨が降ったので中止。
 来週はオフ会が2つ。それまでには行っておかねば。
353 私の考え 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/14(Wed) 21:48
   こんばんは。
 お邪魔いたします。

 f.hさんへ

 この度は、ご指摘いただきまして本当に感謝しております。

 言い訳になってしまいますのですが、私は半年ほど前にネットを始めまして、最近では、ある意味ネットでのやりとりに少し慣れてきたところがございました。
 それで、正直自分でも気付きません内に、配慮が多分に不足しがちになっておりました。

 おかげさまで、今回ご指摘いただきました件に限らず、マナーについて色々と考えさせていただくところがございまして、本当に有り難く思っております。

 どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げます。


 ぐりさんへ

 はじめまして。
 プロレス系のHPで加藤さんにお世話になっております、いどっちと申します。
 今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

 「ガンダム0083」について教えていただきまして、本当にありがとうございました。

 私がよく足を運んでいましたレンタル屋さんは、OVAはほとんど置いてありませんでしたので、すっかり気が付きませんでした。
 今度、置いてあるお店を色々と探してみようかと思っております。

 実は「0080」と「0083」は、春先にCSで放送していました。
 ですが、その時は正直申しまして、見ようとも思いませんでしたのです。
 今思えば、本当に惜しい機会を逃してしまいました・・・。


 さて、加藤さんのご投稿へのコメントをさせていただきます。

>  さて、これまでの私の主張を整理するとこうなります。
>
> 「人間には間違った感動というものがある。」(手塚治虫)
> 「人間をだめにする種類の感動というものがある。」(上記の言い換え)
> 「間違った感動はない方がいい。しかし現実には完全になくすのは不可能。」
>
>  現時点で見解の相違はどこにあるでしょう。
>  わからなくなって来た(笑)。


 まずですね、私は基本的に、加藤さんのほとんどの主張に異論はございません。

 そもそも私が引っかかりました本元は、最初にご提示下さいました手塚氏のコメントです。
 私がそれを拝見しまして、まず思いましたことは・・・、

「この(手塚氏の)コメントは、ある種の感動を完全に否定しているように思えます。

 私の経験ですと、後で客観的に判断して、その結果、「上辺だけの表面的なもの」だと結論付けられる種の「感動」でありましても、まさに感動したその瞬間は、自分の心の高揚をはっきりと実感していました。

 たとえそれが、その場限りのものであったとしましても、その時の確かな手応えは間違いなくありました。

 この種の感動を、はたして「間違った」という言葉で、全否定してしまって良いものなのでしょうか・・・。」

 と、いうものでした。

 (ちなみに、私が、上の説明に限らずこれまで、「否定する」、という言葉をお使いしましたときは、「(それが持つ一切の価値を)認めないこと」という意味でお書きしております。)

 もちろん、手塚氏がこのコメントに込められました真意は、はっきりとは掴めておりませんし、あくまで私がこの一連の手塚氏の文章だけから受け取りました印象に過ぎません。
(もしかしますと、私の手塚氏に対しますイメージも、少しは影響しているかもしれませんが。)

 さて、そしてその後のやりとりにおきまして、手塚氏のコメントに対します加藤さんの解釈を読ませていただきました訳です。(再掲にて失礼いたします。)

> 「人間には間違った感動というものがある。」(手塚治虫)
> 「人間をだめにする種類の感動というものがある。」(上記の言い換え)

 もし、この言い換えが成り立つのでしたら、(つまり、後者の一文が、前者の一文の真意を示すところでしたら、)これらの手塚氏のコメントには、全く異論がないことになります。

 ですが、私は両者の言い換えが、完全な「=」で成り立つとは思えませんでしたのです。
 (もちろん、文法的には、完全な「=」ではありますが。)

 私は、前者の一文の「間違った」という言葉から、「人間をだめにする種類の感動」による「心の高揚」までも、完全に断罪してように思えましたのです。

 ご指摘の通り、「そういった種の感動もある」というだけの、言葉が表す通りの意味でしたら、異論はございません。

 「人間をだめにする種類の感動」が存在しますことは、私も否定しますどころか、(当たり前ではありますが、)その通りだと思っております。

 ともかく私は、

 「今考えてみると薄っぺらい感動ではあったが、あのとき確かに心の高揚を覚えた」

 と言いました種の「感動」を、「まるごと」、「間違った」と否定されることに抵抗を感じましたのです。


ところで、ここでの「まるごと」とは、
「『心の高揚』という現象」と、
「その『心の高揚』の、原因の『質』、また、それからもたらされます結果の『質』」
 の両者を含めて、と言う意味です。

 そして、この「質」(「内容」)の評価は、ある第三者的な物差しによってのみ判断が下されます。


 そして、

>  いどっちさんの意見は「間違った感動は認めたくない」(つまり感動は
> みな素晴らしい)がスタートになっていたように思いますが……。

 これは、

 「『感動すること』つまり『心の高揚を覚えること』は、素晴らしいことである。

 ただし、その性格、質には、色々なものがある。
 もっとも、これらの評価は後から客観的になされるものであり、その評価はそのときの「物差し」によって左右されるという面で、絶対的な評価とはなりえず、これらのことから、両者は切り離して考えるべきではないだろうか。」

 という事になります。

 最初から一貫して私がお書きしたかったことは、このような感じとなります。 

 最後に、順序が逆転してしまいまして恐縮ではありますが・・・、

> > >  つまり心の高揚全てを「感動」と定義するか、人間性を高めるもの> だけを「感動」と定義するかの違いに過ぎないのではないでしょうか。
> >
> >  このご指摘に尽きると考えます。
> >  私はここでの後者の意見が腑に落ちないと考えておりますのです。
>
>  ちょっと待って下さい。
>  後者の定義は「こんなのは感動ではない」という、いわば「極論」を述
> べるための便宜上のもので、「意見」と呼べるようなものではありません。
>  むしろ間違っているのを承知でなされた定義付けとも言えるのではない
> でしょうか。

 また、説明不足がございました。(申し訳ございません。)

 私は、「『感動』とは定義されないもの」=「それが持つ意味の全てを否定すること」という意味で捉えましたのです。


 ・・・ところでなのですが、ここでの投稿は、保存されまして閲覧できるようになっているのですね。
 実は一昨日まで存じておりませんでした。
 ・・・これはかなり恥ずかしいです・・・(苦笑)。

 長文にて大変失礼いたします。

 それでは、またお邪魔させていただきます。
 失礼いたしました。
354 散髪 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/15(Thu) 00:22
   いつか五分刈りにしてみようと思っているが、今回は見送り。

「目にかからないように」「襟にかからないように」などなど注文を付けても返事がない。
 聞こえてないのか?と思いきや、なにやら紙を見せられる。
「耳を完全に出す」「耳に少し髪がかかるようにする」「耳は出さない」
 選べということらしい。
 耳が聞こえない人??
 紙に見慣れない漢字が並んでいる。日本人ではないらしい。

 コミュニケートにやや手間取ったが腕は……悪い。
 痛い。そんなに引っ張らないでくれ。

 家に帰って鏡を見てみると異常にムラがあった。
 ヒゲと前髪はもう少し切ってほしかった。
 切られている最中は眼鏡を外しているからよくわからんのだ。

 鏡の前で髪をまっすぐ垂らし……垂れない。
 天然のウェーブがかかっていて巻き上がってしまう。
 それでも無理やり垂らし、裁縫用ハサミで意を決してジョキジョキ。
 ああ難しい。
 身だしなみには人一倍気を配るたちなのだが(ウソばっかり)。

 いどっちさんへのレスは後日。
355 天の瞳の少年編はいつ・・・ 投稿者:なつ 投稿日:99/07/16(Fri) 08:58
   灰谷作品を読み始めて17年近くになります。で、自分以外の人でこんなにこの作者に興味を持っていたって言うことがうれしかった。
 つい先日『天の瞳〜幼年編T・U』を読みまして、〜少年編〜を探し回ってしまいました。自分は小学校5年のときに初めて『兎の眼』を読んで以来、周りが知らなくても好きな作者は”灰谷健次郎”になってました。以来、全作品を読んだかっていうとそうでもなく、同じ作品を3回、新作と間違えて買ってしまったとか、いろいろしてますが、久々『天の瞳』は好きになりました。早く〜少年編〜に出会いたいです。
356 そうだここは児童文学サイトなのだ 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/17(Sat) 00:17
   なつさんこんにちは。
 灰谷健次郎の愛読者ですか。これは嬉しいですね。
 私が去年インターネットを始めた頃は、愛読者も少なくファンサイトもなくガッカリさせられたものです。
 私は新潮文庫になった灰谷作品は概ね読んでいますが、ハードカバーしか出ていないものには未読のものがいくつかあります。
 ご存知かと思いますが「天の瞳・少年編」は角川書店からIとIIが出ているので、比較的簡単に手に入ると思います。
 読み始めて17年とは凄い。私はその半分以下ですね。
 これからも灰谷文学や、他の文学について色々語り合っていただければ幸いです。
 当サイトのリンクにもありますが、私は下記2サイト(一方はメーリングリストです)にも時々参加していますのでご参考までに紹介致します。
 今後ともよろしくお願いします。
http://www.ne.jp/asahi/book/1/
http://www.din.or.jp/~s-ooura/witch/


 以下、いどっちさんへのレスです。


>  まずですね、私は基本的に、加藤さんのほとんどの主張に異論はございません。

 げげ。では気になった箇所だけコメントします。

>  私は、前者の一文の「間違った」という言葉から、「人間をだめにする種類の感動」による「心の高揚」までも、完全に断罪してように思えましたのです。

 うーん、ですからこれは繰り返しになりますが、甘えや憎悪や偏見が高揚したら断罪されてしかるべきではないかと。

 ところで以下の2箇所は大体同じようなことをおっしゃっているようですが、

>  そして、この「質」(「内容」)の評価は、ある第三者的な物差しによってのみ判断が下されます。

>  もっとも、これらの評価は後から客観的になされるものであり、その評価はそのときの「物差し」によって左右されるという面で、絶対的な評価とはなりえず、これらのことから、両者は切り離して考えるべきではないだろうか。」

 これも繰り返しになりますが、「第三者的な」「客観的な」というのが私には疑問なのです。以前の私の言葉をそのまま引用します。
――――――
 社会のルールであるとか分別であるとか、そうした基準による善悪ならば確かにそうかも知れませんが。
 私は善悪というものは究極的には人間の魂の中にあるものと思っています。
――――――
 つまり感動に対する評価もろもろも、本来は全てその人自身の中にあるものだと思うのです(その評価を自覚しているかどうかは別にして)。


>  ・・・ところでなのですが、ここでの投稿は、保存されまして閲覧できるようになっているのですね。

 ここは投稿が少ないからそういうことができるのですよ。
 プロレスの掲示板ではとてもとても。
357 判断基準 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/17(Sat) 23:06
   こんばんは。
 お邪魔いたします。

 灰谷氏は評判があまり良くないみたいですね。
 私は全くの門外漢ではありますが、私の周りの声も概して同じ様なものでありした。
 難しい問題ですか・・・。

>  うーん、ですからこれは繰り返しになりますが、甘えや憎悪や偏見が高揚したら
> 断罪されてしかるべきではないかと。

 そうですか・・・。
 私は、(少し違いますが)「『(感動の)質』を憎んで『心の高揚』を憎まず」、といいました感じなのです。

>  つまり感動に対する評価もろもろも、本来は全てその人自身の中にある
> ものだと思うのです(その評価を自覚しているかどうかは別にして)。

 う〜ん・・・、自覚していません場合、評価を下す事が果たして可能なのでしょうか・・・。

 以前に加藤さんが、「間違った感動」の一例としましてご指摘下さいましたものの中に、私が考慮に入れておらず「なるほど」と思わされました種類のものがありました。

 それは戦時中の戦意高揚映像についてのご指摘でした。
 このように特別な環境に置かれています人達が、自分の内面に持っている判断基準で評価を下すことが可能なのでしょうか・・・。

 例えば、(明治の終わりに実際にありましたことですが、)
「ある人が殉死し、そのことについて深く感動した人達がいる」とします。

 ここで、殉死について肯定的ではない考えを持つ人達は、「これは間違った感動である」との解釈を下すでしょう。

 ですが、殉死について肯定的な考えを持つ、またそのような考えが一般的とされるような環境に置かれている人達は、深く感動し、その「質」には疑問すら抱かないわけです。

 今の時代、環境に生きる私が考えましても、この種の「感動」が「間違った感動」であるかの判断を下すのには非常に難しいものがあります。

 ですが、少なくとも私が思えますのは、この感動の「意味」や「質」の是非はともかく、このような「感動自体」は素晴らしいと言うことなのです。

(「感動自体」とは、「自分の信じるもののために深く感動する、という行為自体」という意味です。)

 「殉死」という事実にどのような判断を下すかは、その人の考え方次第でしょう。

 つまり、それらの評価の場合、明らかに考え方による第三者的な物差しが存在すると言うことなのです。
(でなければ、評価は成り立ちません。)

 さらに、そうでなければ、手塚氏が他人の感動について評価を下すこともできないのではないでしょうか・・・。

 それでは、失礼いたしました。
358 昨日は・・・ 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/18(Sun) 01:36
   こんばんは。
 お邪魔いたします。

 すみません。
 申し遅れてしまいました。
 昨日は、サイト開設一周年の日でしたのですね。

 おめでとうございます。
 そして今後も、さらなるご発展をお祈り申し上げます。

 失礼いたしました。
359 それは気付かなんだ 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/20(Tue) 23:09
   あ〜、いつの間にか開設1周年か。
 アクセス数は増えもせず減りもせず、結局この1年何だったんだろう。

>  灰谷氏は評判があまり良くないみたいですね。

 ?? 作品の話でしょうか、それとも灰谷氏本人の話でしょうか。
 いきなりで面食らってしまった。
 少なくとも私のネット仲間にはすこぶる評判いいです。

>  私は、(少し違いますが)「『(感動の)質』を憎んで『心の高揚』を憎まず」、といいました感じなのです。

 だとしたら手塚氏の論に全く反していないように思いますが……。
 どうも以下のいどっちさんの意見を読むと、私とは「心の高揚」に対する認識にずれがあるように思います。

> >  つまり感動に対する評価もろもろも、本来は全てその人自身の中にある
> > ものだと思うのです(その評価を自覚しているかどうかは別にして)。
>
>  う〜ん・・・、自覚していません場合、評価を下す事が果たして可能なのでしょうか・・・。

 順序が逆です。私が言っているのは、評価は初めから自分自身によって下されており、それを本人が自覚していないだけということです。
(以前、真理は魂が知っている云々という話が出ましたね。)

> 「ある人が殉死し、そのことについて深く感動した人達がいる」とします。

>  ですが、少なくとも私が思えますのは、この感動の「意味」や「質」の是非はともかく、このような「感動自体」は素晴らしいと言うことなのです。
> (「感動自体」とは、「自分の信じるもののために深く感動する、という行為自体」という意味です。)

 これは明らかに質的な評価に属しているのではないでしょうか。
 殉死への感動に関して言うならば「忠義」「敬虔」などのプラスの要素と「盲信」「狂信」などのマイナスの要素が入り混じっているという分析が成り立つように思います。
「忠義」「敬虔」「盲信」「狂信」、これらいずれも「質」に属する概念ではないでしょうか。

>  「殉死」という事実にどのような判断を下すかは、その人の考え方次第でしょう。
>  つまり、それらの評価の場合、明らかに考え方による第三者的な物差しが存在すると言うことなのです。
> (でなければ、評価は成り立ちません。)

 それぞれの「考え方」を検証することでより普遍性を持った「考え方」が捻出され得るとは言えないでしょうか。
「第三者的な物差し」だって元を辿れば人の手によって作られたもの。
 つまり人間の内面から生み出されたものです。
 その物差しがまちまちであるのは、生み出される過程で歪められることが多々あるからではないでしょうか。
 世の中には間違った評価というものがあるんです(笑)。
360 灰谷さんの大ファンです。 投稿者:とみい りか 投稿日:99/07/23(Fri) 00:21
   はじめまして。なにげなくヤッフーで「灰谷健次郎」を検索したら、このホームページが出てきたのでうきうきしながら見ました。

 灰谷さんの本を始めて読んだのが中3の時です。とても引かれるものがあって、それから灰谷さんが書いてる小説にはまってしまいました。今では全部といっていいほどほとんど持ってます。今は『天の瞳』の青年編T?が出るのが楽しみです。

 掲示板に灰谷さんはあまり評判が良くないようですねとありますが、私は灰谷さんが好きです。灰谷さんの本には心が休まるところがあるというか、今の世の中の理想をえがいてるみたいな気がしませんか?

 私の友達には灰谷さんのファンがいないので良かったらメールください。最近ポスペを始めたのでよろしければおねがいします。
361 Kenjiro 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/23(Fri) 01:48
   とみいりかさんこんにちは。
 Yahooにはつい最近登録されたばかりなんですよ。
 私が灰谷作品を初めて読んだのは小学生の頃で、作品は「マコチン」でした。が、のめり込むのはその十数年後のことです。
 読んだ順序は記憶が曖昧なのですが、「兎の眼」−短編集「ろくべえまってろよ」−「太陽の子」と来て、「太陽の子」でヤラれました。
 以来、時に灰谷作品に不満を抱きつつも、最も気になる作家のひとりであり続けています。

「理想を描いている」というのは同感です。
 以前「灰谷健次郎は勘違いしている」という意見に対し、「それは勘違いではなく彼の『願い』だ」と反論したことがあります。

 少し前のログでも紹介していますが、下記の掲示板とメーリングリストに参加していますので、興味がありましたらどうぞ。
http://www.ne.jp/asahi/book/1/
http://www.din.or.jp/~s-ooura/witch/

 なつさん、とみいさんと灰谷健次郎の読者が現れてくれて嬉しい限りです。 今後ともよろしくお願いします。(後ほどメールも出します。)

 ところで、灰谷文学を語り出したら止まらない筋金入りの愛読者がネット仲間にいるんですが、果たしてここを見てるかどうか。
362 真理の存在 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/23(Fri) 22:08
   こんばんは。お邪魔いたします。
 武道館大会、お疲れさまでした。

>  ?? 作品の話でしょうか、それとも灰谷氏本人の話でしょうか。

 すみません。実は私もよく把握できてはおりませんのです。
 耳にしておりました意見を私の印象としてそのまま書いてしまいました。
 軽率でしたと思っております。
 大変失礼いたしました。

 とみい りかさん、はじめまして。
 そういう訳でありますので、ご気分を害されましたらどうかご容赦お願い申し上げます。
 大変申し訳ございませんでした。

> >  私は、(少し違いますが)「『(感動の)質』を憎んで『心の高揚』を憎まず」、といいました感じなのです。
>
>  だとしたら手塚氏の論に全く反していないように思いますが……。

 いえ、私の考えですと、以前にも申し上げました通り、「心の高揚」と「質」、両者の評価は全く別物なのです。
 加藤さんのお言葉をお借りいたしますと、「自覚していない」質の評価と、「自覚している」質の評価とは、分けるべきだと考えますのです。
(上記の二文におけます両者は、一対一対応ではありません。念のために記させていただきます。)

 確かに、「自覚していない」質の評価を含めるのでしたら、全ての心の高揚は、質の評価の上に成り立っていると言っても良いでしょう。
 ですが、「殉死」の例や、「場に酔わされる」種の感動など、その「否定的」評価の元には必ず「自覚する」ことが必要な感動がある以上、これらをひっくるめて同じ「質の評価」としますのは、少々乱暴な気がするのです。

 (ここで、真理は全て人間の内にあるとしてしまいますと、理論の構築はそこで止まってしまいます。
 そもそも、自覚しないで下した評価(理由の説明できない評価)は、「評価」と言えますでしょうか・・・。
 また、「自覚しないで下した」評価に理由付けする事が不可能なのは自明です。)

> > 「ある人が殉死し、そのことについて深く感動した人達がいる」とします。

>  これは明らかに質的な評価に属しているのではないでしょうか。
>  殉死への感動に関して言うならば「忠義」「敬虔」などのプラスの要素
> と「盲信」「狂信」などのマイナスの要素が入り混じっているという分析
> が成り立つように思います。
> 「忠義」「敬虔」「盲信」「狂信」、これらいずれも「質」に属する概念
> ではないでしょうか。

 私もそう思います。
 そしてこれらは、自覚していなければ明確に判断できない類の「質」の評価です。
 つまり、上のご説明ですと後者に当たります。

 そして(当然ではありますが)、本人が自覚していません場合、これらの判断自体を評価するのも不可能です。

 (自覚していないのに、無意識に正しい評価が下されていると言いますのは、もはや宗教の世界なのではないでしょうか・・・と思えるのです。)

>  それぞれの「考え方」を検証することでより普遍性を持った「考え方」
> が捻出され得るとは言えないでしょうか。
> 「第三者的な物差し」だって元を辿れば人の手によって作られたもの。
>  つまり人間の内面から生み出されたものです。
>  その物差しがまちまちであるのは、生み出される過程で歪められること
> が多々あるからではないでしょうか。
>  世の中には間違った評価というものがあるんです(笑)。

 これは・・・、「真理は一つ」とおっしゃるのでしょうか・・・?
 それでしたら、申し訳ありませんが私は少し同意しかねます。

 繰り返しになってしまいますのですが、少なくとも、それは理論の構築には使えない考え方なのではないでしょうか・・・。
 (前提とは成り得ないからです。)

 私は、証明できませんものを正しいと認めますのには、やはりいささか抵抗があります・・・。

 それから、「それぞれの『考え方』を検証することでより普遍性を持った『考え方』が捻出され得る」とのご指摘ですが、これは確かにその通りだと思いますが、これが100%「正しい」考え方に近づくとの意味でしたら、それは違うと思考えます。

 何が正しいのかということは、(それが存在しますか否かはともかく、)証明するのは不可能であるからです。(この場合、いかなる前提もそれ自体が正しいことを証明することはできません。)

 では、失礼いたしました。
363 Re: Kenjiro 投稿者:とみい りか 投稿日:99/07/23(Fri) 23:12
   返事ありがとうございます。

 灰谷さんってスゴイと思います。私達は読んで感動?してしまいますが、それを書いてるんですよね。世の中には灰谷さんみたいな考えの人が少ない。それが少し残念です。もっとたくさん入れば、いま、小学校とかおこっているで学級崩壊とかがなくなると思うんですけど。そういうわけにいかないところが難しいです。

 私も中学や高校の時(今行ってる大学にも)こんな先生がほんとにいればいいのになあといつも思ってました。


> なつさん、とみいさんと灰谷健次郎の読者が現れてくれて嬉しい限りで
> す。 今後ともよろしくお願いします。(後ほどメールも出します。)
>
>  ところで、灰谷文学を語り出したら止まらない筋金入りの愛読者がネッ
> ト仲間にいるんですが、果たしてここを見てるかどうか。

 その人と話してみたいです。直接じゃなくてメールか掲示板で。

 これからもここに書き込みにきます。またよろしくお願いします。
364 こんばんわー 投稿者:とみい りか 投稿日:99/07/23(Fri) 23:27
   こんばんわ。

 あまりいいうわさがないというのは本当です。しばらく前にあったある事件でフォーカスにコメントを書いて新潮社から版権を引き上げられたということがあるので、うそじゃないですよ。今は角川文庫から今までの作品が出されてます。それにしても、正しい考えを持ってる人が悪者にされる世の中っておかしいですよね。

 それではまた。
365 灰谷評 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/24(Sat) 23:13
   灰谷健次郎のように、作品も行動もストレートな人物は揶揄しやすいんでしょうね。
 版権引き上げにしても、あの行動が全て正しいかどうかはともかく、写真掲載問題に対してリスクを承知で断固とした姿勢を示したことをまず評価すべきなのに。
 安易に揶揄する連中には清水真砂子の言葉を聞かせてあげたい。
「灰谷の《野暮な》作品は灰谷の悪口をいう粋でスマートな連中の書くものよりはたぶん確実に上をいっている。」

 しかし灰谷サイトは本当に少ないですね。
 Yahooに登録されているのはここだけだし。
 もしホームページを開設なさることになれば喜んで相談に乗ります。

 さて、もうひとりの愛読者氏は現れるかどうか。


 以下、いどっちさんへのレスです。

 一連のやりとりで感じるのは、「評価」という言葉の捉え方の違いです。
 いどっちさんはテストの採点よろしく○×を付けるのを「評価」と考えているように見受けられます。
 私の考える「評価」とは、その人の精神に質的に何がもたらされたかという「事実」そのものとでもいうべきものです。
「無意識に評価が下される」というのもそういう意味ですから、オカルト的に捉える必要はないはずです。

 以下3点コメントします。

> >  だとしたら手塚氏の論に全く反していないように思いますが……。
>
>  いえ、私の考えですと、以前にも申し上げました通り、「心の高揚」と「質」、両者の評価は全く別物なのです。

 いやいや、私の言いたいのは、手塚氏は「心の高揚」を否定しているようには見受けられないということです。
(話題にすら上っていないのでは。)

>  私は、証明できませんものを正しいと認めますのには、やはりいささか抵抗があります・・・。

 あら、以前のやりとりと矛盾してないでしょうか。

いどっち:「はっきりと」間違った感動を規定できない状態で、
     これを完全に消してしまうことを理想とするのはおかしい
加  藤:それを言ってしまったら、人生の究極の目的とも言われる
     「真・善・美」の追求だって不自然ということになってし
     まうのではないか
いどっち:これはおっしゃる通り

>  それから、「それぞれの『考え方』を検証することでより普遍性を持った『考え方』が捻出され得る」とのご指摘ですが、これは確かにその通りだと思いますが、これが100%「正しい」考え方に近づくとの意味でしたら、それは違うと考えます。

 これも上記のやりとりと矛盾しているように思います。
「普遍性を持った」と「正しい」は意味が異なるのでしょうか。
「普遍性」とは「全てのものに通ずる性質」という意味ですから……。
 人の世で完璧な普遍性(正しさ)などあり得ないのは言うまでもありま
せんが。
366 (無題) 投稿者:とみい りか 投稿日:99/07/25(Sun) 00:01
   版権引き上げの時のことでは灰谷さんはすごいと思います。当然といえば当然ですが、自分の仕事(収入源)を自ら危険にさらしてまで自分の考えを貫き通す人はあまりいないじゃないですか。だから編集社や出版社の言いなりになってる人がほとんどで。情けない?世の中ですね。自分のいいたい事も大声で言えないなんて。

 私はまだ20歳でまだまだ人生経験不足なので、あまり難しい事は書けない……でも、灰谷文学に出会えてよかったです。これからは友達のなかで広めていきたい。はたして受け入れてくれるでしょうか。だいたい『兎の目』とか『太陽の子』なら読んだ事あるという子はいるんですけど、ファンになったという子はなかなか・・・

 やっぱりまだまだ灰谷さんの愛読者って少ないですね。いるところにはいるんでしょうけど。
367 さあみんなで壊れましょう♪ 投稿者:たき 投稿日:99/07/25(Sun) 00:06
   加藤さん、お久しぶりです(^v^)
 昨日の夜中にどこからともなく加藤さんのヒヒヒ笑いが聞こえ、呼ばれている気がして、思わず来てしまいました(うそばっかり)。
 ええと、筋金入りって私のこと?(笑)すごい言われよう!<ちょっと嬉しい

 なつさん、とみい りかさん、はじめまして!たきと申します。
 加藤さんには、はじめ「児童文学書評」の掲示板でお世話になり、以来、灰谷文学のことなどを中心に語り合ってきました・・・
 と言えばかっこいいのだけれど、私があまりにもじゃじゃ馬なため、加藤さんはすっかり愛想をつかしておられるのではないでしょうか(笑)。

 私の筋金はちょっと最近ひんまがりがちになっていて、『天の瞳』は一度ずつしか読んでおらず、また「少年編2」は未読です。
 灰谷さんとのはじめての出逢いは、実は絵本や小説ではなく、『一年一組せんせいあのね』という、子供の書いた詩集でした。
(灰谷さんが鹿島和夫さんに協力するという形で編集している本)
 そして、『ろくすけどないしたんや』などの絵本から、『島物語』『プゥ一等あげます』などの物語を自然と読むようになりました。
 小学生の頃から灰谷さんの本はとても好きで、何度も読み返していました。
 灰谷健次郎の本だから、という風にエッセイなども選んで読みはじめたのは、中学生になってから読んだ『兎の眼』がきかっけです。
 でも、『兎の眼』の後すぐに読んだ『太陽の子』が、その志向を決定的なものにしました。
 加藤さんと一緒で、ヤラれちゃったんです(笑)。
 今でも読み返す灰谷文学といえば『太陽の子』です。

 灰谷文学を語り出すと止まらないというのは本当で(笑)、けれど、それを「熱心に」語る相手がいなかった、というのはりかさんと一緒です。
 私には、灰谷さんの本を読んで「いいよね」と言う友人はたんまりいても、それを全力で話し合うということはなかなかできなかったのでした。
 正面を向こうとしても、灰谷文学を真剣に語るというは残念ながら、人にとっては時に、アブナイことになってしまうのです。
 それが私にはとても悲しかった。
 そんな時、救世主のように現われたのが、加藤さんというわけです!!!
 りかさん。私がインターネットで初めて検索したコトバは、「灰谷健次郎」だったんですよ!
 そして、初めて掲示板に投稿したのも「灰谷健次郎」でした。

 私は灰谷さんが大好き!
 ほんとにその気持ちは、変わったことがありません。
 灰谷文学の欠陥を頭脳で認めることと、その欠点を心で捉え直すことには、隔たりがあり、どうしても違うことのように、私には思えるのです。
 加藤さんとお話する中で、私が痛感したのはそのことでした。
 そして、最も感じたのは、どうしても灰谷健次郎の文学を介しての話は、自分を決して誤魔化すことができない、深い部分での対話となってしまう、ということです。これは恐いことです。そして私には必要なことでした。
 作品を分析し、出来を評価することも時には大切なことですが、不出来な部分を通してでさえ、灰谷文学は私を真剣に打っている。
 それが、私の中の灰谷文学の、動かぬ位置づけになっています。

 こんな風に真剣に書くと、とてもキマジメな人間のようですが、ホントはちょっといつもネジがはずれているようなヒトなので、恐がらないでくださいね(笑)。
 これからもよろしくお願いします!
 改めて。加藤さん、これからもどうかよろしくお願いしますね。

 でも、ほんとに良かったですよね。灰谷ファンがここに来てくださって!
 やっぱり加藤さん、日ごろの行いがいいから!
「なんちゃって」 ← なんでタイトル変えちゃったんですか?
 では、また伺います。楽しみだなあ♪ よおし、壊れてやるう(*^0^*)/^
(ここを破損しない程度にね!ご心配なく(笑)

P.S
 新潮社と言えば『灰谷健次郎 まるごと一冊』(新潮社)って雑誌ずっと前に買ったんですが、それにも載ってますよね。例のフォーカス事件。
 この雑誌を最後に新潮社と縁をきったんだっけ・・・
368 「正しい」と「普遍」 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/25(Sun) 09:55
   こんにちは。お邪魔します。

 話題に上がっています事件につきまして私も何かで読んだことはありますが、あまり全体を把握できてはおりませんのでコメントは控えさせていただきます。

>  一連のやりとりで感じるのは、「評価」という言葉の捉え方の違いです。
>  いどっちさんはテストの採点よろしく○×を付けるのを「評価」と考え
> ているように見受けられます。
>  私の考える「評価」とは、その人の精神に質的に何がもたらされたかと
> いう「事実」そのものとでもいうべきものです。
> 「無意識に評価が下される」というのもそういう意味ですから、オカルト
> 的に捉える必要はないはずです。

 いえ、「何がもたらされたかという『事実』そのもの」の「価値を評する」わけですから、やはり「評価」と言いますからには、(程度の差はありましても)○×を基準に考えるものではないでしょうか・・・。

 例えば、感動した本人に、その「感動」がどのような影響を与えるか、という場合ですと、突き詰めれば「プラス」の影響か「マイナス」の影響かになるわけです。(極限的には「0」はありません。)

 私は、この意味で下される「評価」がいつも正しいわけではない、(人間の内面にその正しい評価が必ず潜んでいるとは考え難い)と考えておりますのです。

>  いやいや、私の言いたいのは、手塚氏は「心の高揚」を否定しているよ
> うには見受けられないということです。
> (話題にすら上っていないのでは。)

 う〜ん・・・、私はある種の感動を「断罪」している以上、その全てを無意味なもの(あるいは悪影響を及ぼすもの)として、否定しているように思えますのですが・・・。

> >  私は、証明できませんものを正しいと認めますのには、やはりいささか抵抗があります・・・。
>
>  あら、以前のやりとりと矛盾してないでしょうか。
>
> いどっち:「はっきりと」間違った感動を規定できない状態で、
>      これを完全に消してしまうことを理想とするのはおかしい
> 加  藤:それを言ってしまったら、人生の究極の目的とも言われる
>      「真・善・美」の追求だって不自然ということになってし
>      まうのではないか
> いどっち:これはおっしゃる通り

 確かに、ご指摘されました例(「真・善・美」)ですと、突き詰めればそのように考えられると思います。

 ですが、これらを理論の前提としてしまいますのは、いささか乱暴に感じるのです。
 (つまり「公理」としては使えないと思うのです。)
 でなければ、そもそも全ての事項が、このような形で説明されるのではないでしょうか・・・。

> >  それから、「それぞれの『考え方』を検証することでより普遍性を持った『考え方』が捻出され得る」とのご指摘ですが、これは確かにその通りだと思いますが、これが100%「正しい」考え方に近づくとの意味でしたら、それは違うと考えます。
>
>  これも上記のやりとりと矛盾しているように思います。
> 「普遍性を持った」と「正しい」は意味が異なるのでしょうか。
> 「普遍性」とは「全てのものに通ずる性質」という意味ですから……。
>  人の世で完璧な普遍性(正しさ)などあり得ないのは言うまでもありま
> せんが。

 いえ、お書きしました通り、『100%「正しい」』という意味でしたら、「普遍性」と同義だと思います。
 私は、「正しい」と言います場合、一体何(の判断基準)に対して「正しい」のか、を規定する必要があると考えています。

 そもそも、本当に人間の内に、全ての「100%正しい」(「普遍的な」)判断基準が存在するのでしょうか・・・。

 もしかしますと確かにそうかもしれませんし、そうでないかもしれません。
 (ちなみに私は今は、「そうでない」方だと思っています。)

 ですがともかく、(繰り返しになってしまいますが、)これを「成り立つ」として話を進めますのはかなり引っかかるのです。
 そうしてしまいますと、(出てくる過程で歪められたかもしれない)観測し得る現象の評価は無意味になってしまいます。

 色々と説明不足な点が多く、本当に申し訳ございませんでした。
 まだ他に何か不明な点がございましたら、どうぞご指摘下さいますと幸いです。

 それでは、失礼いたしました。
369 暴走戦士 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/26(Mon) 01:06
   うおーたきさん、いきなり壊れてるぞ。

> 加藤さんはすっかり愛想をつかしておられるのではないでしょうか(笑)。

 私の口からは言えません。

> でも、『兎の眼』の後すぐに読んだ『太陽の子』が、
> その志向を決定的なものにしました。

 あ、これ初耳。知らんかった。

> 今でも読み返す灰谷文学といえば『太陽の子』です。

 私は「太陽の子」は一度読んだきり……。
 読み返すのが怖いという気持ちがあったりして。 

> そんな時、救世主のように現われたのが、加藤さんというわけです!!!

 誰が吸血鬼じゃ。

> りかさん。私がインターネットで初めて検索したコトバは、
> 「灰谷健次郎」だったんですよ!

 すいません、私は「今江祥智」でした。

> そして、初めて掲示板に投稿したのも「灰谷健次郎」でした。

 すいません、私は「今江祥智」でした。

> ホントはちょっといつもネジがはずれているようなヒトなので、

 もうバレてると思います。

> 改めて。加藤さん、これからもどうかよろしくお願いしますね。

 はあ(戦々恐々)。

> やっぱり加藤さん、日ごろの行いがいいから!

 それは私も認める。

> 「なんちゃって」 ← なんでタイトル変えちゃったんですか?

 前のタイトルは仮なのだ。
 しかし今のタイトルももう飽き出した。
 新タイトルを考え中。

> では、また伺います。楽しみだなあ♪ よおし、壊れてやるう(*^0^*)/^

 げげ、これ以上壊れるんすか。

> 新潮社と言えば『灰谷健次郎 まるごと一冊』(新潮社)って雑誌
> ずっと前に買ったんですが、それにも載ってますよね。例のフォーカス事件。
> この雑誌を最後に新潮社と縁をきったんだっけ・・・

 持ってます。
 発行も危ぶまれたけど、写真掲載に対する見解を載せることを条件に出版されたと記憶しています。

 さあ、とみいりかさん、このヒトをどう料理しますか。

 いどっちさんへのレスは後日。
370 恐ろしい話、三題 投稿者:石焼ビビンバ 投稿日:99/07/26(Mon) 01:32
   もなさん今晩は

 では季節柄、世にも恐ろしい話しをお聞かせいたしましょう。

  第一話「あの世の話し」

 オー加藤さん、あのよォー。 (オシマイ)

  第二話「猫の怨念」

 これは関西地方に伝わる話しです。では−−

 あの階段のところにな、猫がオンネン。

  第三話「猫の因縁」

 やはり関西地方の話しです。

 あの階段の向こうにな、猫が---え、もういいですか?

 ---まだ途中なんですけれど。

 では次回、もっと怖い話しをお届けいたしましょう。
371 間違い 投稿者:石焼ビビンバ 投稿日:99/07/26(Mon) 01:33
  「も」誤
「み」正
372 壊れた人がここにもひとり 投稿者:加藤 浩司 投稿日:99/07/26(Mon) 23:05
   ビビンバさん、ディアマンテスのオフ会では数々の粋な計らい、ありがとうございました。
 またお会いしましょう。
 あ、間違えた場合は削除−再投稿という技がありますので今度試してみて下さい。


 以下、いどっちさんへのレスです。

>  いえ、「何がもたらされたかという『事実』そのもの」の「価値を評する」わけですから、やはり「評価」と言いますからには、(程度の差はありましても)○×を基準に考えるものではないでしょうか・・・。

 若干私の文への読み違いがあるようです。
 私は「“質的に”何がもたらされたかという事実」と言っています。
 つまり「事実」の中に「評価」の意味も含まれているのです。

 ですから「○×を基準に考える」という点では私も全く同じ考えです。
 しかし人の手によって○×判定がなされたかどうかを問題にする必要はないと思うのです。
 ○か×かの「事実」がある、それだけで充分ではないでしょうか。
 詳しくは判断基準云々の件で後述します。

>  う〜ん・・・、私はある種の感動を「断罪」している以上、その全てを無意味なもの(あるいは悪影響を及ぼすもの)として、否定しているように思えますのですが・・・。

「人間には間違った感動というものがある」というひとことがなぜそうした極論として受け取られる必要があるのでしょう。
 この言葉自体は確かに極論めいています。しかし極論であるのを承知で発せられた言葉を額面通り極論として受け取った場合、それは言った人の真意とは大きくかけ離れたものになるはずです。
 それこそ「こんなのは寿司じゃない」の世界です。

>  私は、「正しい」と言います場合、一体何(の判断基準)に対して「正しい」のか、を規定する必要があると考えています。

 では手塚治虫は相対的な正しさを追究した作家なのでしょうか。
 むしろ「アドルフに告ぐ」などでは一定の基準によって善悪を判断することの危険性を説いてすらいます。
 私は全ての作家、芸術家は絶対的な正しさを求めて(近付こうとして)創作活動をしていると思っています。
 だからこそ「間違った感動というものがある」という直感的な(ある意味論理を放棄した)言葉を吐きもしたのではないでしょうか。

 物語や芸術の価値は、理論を超えた所で「これが正しい(美しい)」というものをどれだけ表現し得たかに掛かっていると私は考えています。
 それこそ「魂が知っている」と信じていなければできないことです。
 そうした要素のない作品などに私は興味ありません。

 世の中に論理的な「信念」などあるでしょうか。
 何かを基準に論理的に導き出されたものは「分析結果」にすぎません。
 信念を語るのが「創作」だとするならば、全ての作品には「基準」など存在しません。
「信念」は裏付けがないからこそ語るのが難しく、だからこそそれをやってのけたものが「名作」と呼ばれるのではないでしょうか。
 恐らくはそうした信念から発せられたであろう手塚氏の言葉に対し、明確な論拠を求めるのにどれほどの意味があるのでしょう。

>  そもそも、本当に人間の内に、全ての「100%正しい」(「普遍的な」)判断基準が存在するのでしょうか・・・。
>
>  もしかしますと確かにそうかもしれませんし、そうでないかもしれません。
>  (ちなみに私は今は、「そうでない」方だと思っています。)

 あら、以前「最終的には全て『魂が知っている』というところに帰結する」という私の意見に対し「全く異存はない」とおっしゃってましたが……。
373 もうすっかり夏ですね〜 投稿者:いどっち 投稿日:99/07/27(Tue) 00:41
   こんばんは。お邪魔します。

 近頃は毎日、本当に暑いです。
 京都は、夏は暑く冬は寒いといういやな土地ですが、私はなぜか夏に強い体質ですので何とか耐えきれています。

> >  う〜ん・・・、私はある種の感動を「断罪」している以上、その全てを無意味なもの(あるいは悪影響を及ぼすもの)として、否定しているように思えますのですが・・・。 > > 「人間には間違った感動というものがある」というひとことがなぜそうし > た極論として受け取られる必要があるのでしょう。

 ・・・ですが、私は元々「ある種の感動を『間違った』と評価する」点だけに異論を申し上げていましたのです。
 その後、加藤さんが「断罪されてしかるべき」とおっしゃられましたので、それを手塚氏のコメントの一解釈として把握しましたのです。

 ですから、それでしたらお話が戻ってしまいます・・・。

> >  私は、「正しい」と言います場合、一体何(の判断基準)に対して「正しい」のか、を規定する必要があると考えています。

>  では手塚治虫は相対的な正しさを追究した作家なのでしょうか。

>  恐らくはそうした信念から発せられたであろう手塚氏の言葉に対し、明
> 確な論拠を求めるのにどれほどの意味があるのでしょう。


 いえ、私は別にそのような考えを持っているわけではありませんのですが・・・。(それに異論を挟んだつもりもございません。)

 「正しい」という言葉を使うときには、「何に対して」正しいのかを考える必要があるという文法上のあたりまえの事を申し上げただけなのです。

 それに、手塚氏のコメントに明確な根拠を求めたわけでもございません。

 ただ、加藤さんのお書きになられましたコメントに対して、詰めて考えた結果のお返事です。

> >  そもそも、本当に人間の内に、全ての「100%正しい」(「普遍的な」)判断基準が存在するのでしょうか・・・。
> >
> >  もしかしますと確かにそうかもしれませんし、そうでないかもしれません。
> >  (ちなみに私は今は、「そうでない」方だと思っています。)
>
>  あら、以前「最終的には全て『魂が知っている』というところに帰結す
> る」という私の意見に対し「全く異存はない」とおっしゃってましたが……。


 これも、(上と同じですが、)私はそのような考え方が成り立つという点は認めております。(私の意見はともかくとしてです。)
 お書きになられましたご意見に対しまして、私には口を挟む余地もつもりもございません。

 この部分は、そういう質のやりとりなのではないでしょうか。
(お書きしました通り、どちらが正しいのかなど絶対に分かりませんし。)

 何かご不明な点がございましたら、またご指摘いただけますと幸いです。

 それでは、失礼いたしました。
374 〜少年編〜が見当たらない・・ 投稿者:なつ 投稿日:99/07/27(Tue) 12:55
   毎日、本屋さんに通い探しつづけているのですが、影も形もなくまだ発売前?って気になってしまうくらいです。でもたしか〜少年編〜が先だった気がして都内の大きいと思われる本屋さんに行ってます。
 ほんとにいつになったらお目にかかれるのやら・・・。
『兎の眼』と似ているけど、でも、新鮮に感じられるし、灰谷さんのような先生がいてくれたらいいってずっと思ってた。別に成績が悪かったわけでもいじめにあってたわけでもないけど、自分の理想の先生像は灰谷さんって感じでした。
 意外と同じ感じに思っていられる方がいてほんとにうれしいです。
375 単行本ですか? 投稿者:とみい りか 投稿日:99/07/27(Tue) 15:47
   2、3日ご無沙汰してました。

 なつさんが探してる天の瞳の少年編って単行本のことですか?A5版?ならかなり前に出版されてますよ。少年編の1と2の両方。でも単行本の方はまだ出てないみたいです。

 なんか今日のこの掲示板の内容がすごく難しかったです。