(2000.7.7〜2000.7.18)

1131 権威はすべて幻想ではないですか
投稿者:オールドファン 投稿日:2000/07/07(Fri) 12:22
   すべて権威は権威を自認する人と権威であることを認める人による幻想ではないですか?(新左翼がかっているかな?)

 権威にそれ程の普遍性はないですよね。
 例えば、大学に国際的に認められる優れた研究をしている教授がいて、学内でも一目置かれる存在であったとしても、学生がその教授のことを「自慢話ばかりのつまらない授業をするオヤジ」と評価していたら学生にとっては権威ではない。

 また、権威にも本当は領域がありますよね。
 ガリレオの例を出すまでもなく、神学の権威は自然科学の権威ではない。 
 「◯◯学の権威」と呼ばれる人にしてもその◯◯学の全てに精通しているわけではなくて、実はそのうちの一部に特に詳しいだけでしょう。それなのに権威として認めた時点で◯◯学の全てに精通していることになってしまう。
それどころか、領域外のことまで権威風な発言をしてしまう、周囲はそれを許してしまう。
 また、「◯◯学の権威」と呼ばれる人でも、本来の能力に優れた人ではなくて単に集金能力に優れた人や人脈が広いだけの人が混ざっていることもままあります。それでも「権威」と認められてしまうと発言に重みが出てしまう。
 学問の世界でもそんなものでしょう。

 一般社会ではどうでしょうか。今の日本は××評論家の類が氾濫しているけど、評論家の資格・資質をどう認定しているのでしょう。それにも関わらず「評論家の言うことだから」と安易に納得する構造ができていないでしょうか。
 それどころか、TVのワイドショーのコメンテーターなる人物が何か言うと「TVに出ている人が言ってるのだから」と安易に納得している構造すらあるように思います。
 昔からなのか、現代の特徴なのか日本の社会では自分で考え、自分で判断することを放棄しているように思えてなりません。

 例の掲示板のC氏の件にしても、掲示板を見て判ったことは「私は偉いんだ」「作家は読者より偉いんだ」とC氏が振る舞っていることだけです。後は、掲示板の参加者が「C氏は偉いんだ」と認めてしまえばお手軽な「権威」の出来上がりでしょう。今の日本はそんなお手軽な社会ですから。
1132 オールドファンさん、もうちょっと解説してください
投稿者:じゅんのすけ 投稿日:2000/07/07(Fri) 20:49
   …といきなり他力本願で申しわけないのですが…。

 花の24年組が70年安保=新左翼の洗礼を受けている…って、たとえば具体的にはどういう!? 60〜70年代に世界で吹き荒れた学生運動が(日本では72年の連合赤軍事件で一応失速するのかな?)当時の若者たちに多大な影響をもたらしたことは、うん、多分そうなんだろうなあ、とは思うのですが(もとやま礼子さんの“梅干”の話しも=反戦ですよね)、うーん、でもむしろ、少女漫画の興隆は、心情的反体制がバックボーンになっているというよりは、高度経済成長を背景にした、女性の社会進出→自由→自信→解放といった流れにのっているのではないかなあ、と。
 たとえば、70年代には、ヴェトナム戦争を描いた樹村みのりさんの「海へ…」という名作もありましたし、河あきらさん(←でした?)など社会派の作家もいたけれど、でも、24年組の活躍の場って、ちょっとそういう人たちとは、ズレたところにありますよね?
 でも、新左翼って言葉をよく理解してないから、オールドファンさんが、なにをもって洗礼を受けた、と仰っているのか読み取れていないと思うんです。それで、もうちょっと解説を…とリクエストしたわけなんですが。
 すみません…手間のかかるヤツです。

 あと、オールドファンさんは、倉田江美さんなんかどうでした?
1133 70年安保と24年組 投稿者:オールドファン 投稿日:2000/07/08(Sat) 17:44
   掲示板を読む人たちには世代差があるんでした。失礼しました、確かに説明不足です。
 いわゆる花の24年組の中で70年頃に左翼であったことが明確なのは池田理代子だけです。(当時東京教育大学の学生で左翼政党の青年部に所属していました。)ほかの作家達は確認できません。竹宮恵子は当時徳島大学の学生で池田理代子と同じ青年組織に所属していたという話は聞いたことがありますが、未確認です。

 具体的な党派性と言うよりは時代背景ですね。
 70年安保=新左翼運動の特徴は既存の体制に対する疑問・否定です。多くの大学で大学紛争がありました。共通のスローガンとしては反ベトナム戦争、反日米安保条約ではあったのですが、根っこにあったのはもっと純粋な疑問でした。
 お仕着せのカリキュラムや学生の意見の反映されない大学運営への不満ですね。学生は教授会の決定に従っていればいい、学生は勉強だけしていればいい、大学は学問の府だから社会から隔絶していていいといった権威の押しつけへの反発もあって、多くの大学で大学紛争が起こり、授業が中止となり、代わりにクラス討論が行われていました。当時の大学生は授業を聞くよりは討論することの時間の方が多かったくらいです。
 既存の価値観・権威の否定(あるいは疑問)が社会風潮でもありました。
 それがどう少女マンガと結びつくのかというと大きくは2点でしょうか。

1つは既存の価値観への疑問(そのままですね)
 「女の子は・・・でなければいけない。」という社会的制約からの脱皮。
 以前にも書いたことがあるのですが萩尾望都や竹宮恵子が当時「少年」にこだわって作品を書き続けたのには「少女」を主人公にすると「女の子だから」という制約が多すぎて主人公が自由に行動できないからだそうです。
 そもそも「少年」を主人公にすることが少女誌の既存の価値観(少女誌は女の子のあこがれだけを描いていればいい)への挑戦ですから。
 当時の萩尾望都に「毛糸玉にじゃれないで」という短編がありますが、この作品で主人公(女子高校生)が親に隠れて煙草を吸っている場面があります。編集部でかなり物議を醸したそうです。「女の子が煙草を吸うのはけしからん」「未成年だ」「不良ならともかく普通の高校生だ」そんな社会の古典的な価値観から自由になりたかったんでしょう。

2点目は社会を見ていたことですか
 マンガのテーマ(あるいは背景に)社会を見ていたことですね。樹村みのりの「ベトナム戦争」、吉田秋生の「米軍基地」が有名ですが、多くの作家が生活や人生と社会との関わりを考え、描いてていたのも新左翼の影響だと思います。
 根っこは1点目と同じなのかもしれません。社会に視点を置くというのも従来の「学生は社会のことはどうでもいいんだ勉強だけしていればいい、」という権威の押しつけへの反発でしょうから。この「学生は」を「女の子は」に「勉強」を「恋や良妻賢母」に置き換えれば構図は全く同じです。

 じゅんのすけさんのおっしゃる心情的反体制で言葉としてはそのままなんですが、どこまでを「反体制」の範疇にはいるかに私と違う点があるように感じました。
 「女性の社会進出→自由→自信→解放」の図式には疑問です。
 当時、それ程女性は社会進出できていません。せいぜいが職場の花、適当にお茶くみや雑用をさせて結婚退職させる時代でした。今でも「透明な天井」という言葉がジェンダーで使われますが、そんなものではない明確な差別構造があった時代です。解放されることができたのはマンガの中ぐらいでした。
 反戦にはあまりこだわらないで下さい。ある種70年安保の影響で「反戦平和」というスローガンが社会現象の部分があって、戦争反対マンガも描いてみようかといった問題意識のあまり感じられない反戦マンガもありました。24年組の活躍と反戦平和は=では結べません。
(反戦と打つとどうしてもハンセンと変換してしまう、困った)

 私の世代だと長野オリンピックで森山良子が「さとうきび畑で」を歌ったのは感無量です。あれは70年安保の時代を象徴する反戦歌ですから。

 話が、それてしまいました。失礼しました。
 最後に倉多江美ですか。上手いのか下手なのか判らない独特の絵と独特の間に味がありましたね。好きなマンガ家です。ただ、独特すぎて意味がよく分からない時がありました。

 長文なのにまとまらない文章になってしまいました。
 じゅんのすけさん、また突っ込んで下さい、繰り返すうちにもう少しまとまった話が出きると思います。
1134 間違えてた 投稿者:加藤 浩司 投稿日:2000/07/09(Sun) 01:10
   今までずっと気付かなかった。山岸涼子じゃなくて山岸凉子だ。
 知らなかったの私だけか。

「新左翼」「高度経済成長」「女性解放」、これ全部一本の線で繋がっているような気がします。
1135 知識不足で突っ込めません… 投稿者:じゅんのすけ 投稿日:2000/07/09(Sun) 22:36
   でも、こんなに丁寧な解説を返してくださったオールドファンさんの恩義に報いるため、がんばってみます。

 池田理代子さんが、実際に学生運動に携わっていたとは知りませんでした。むむ、面白いですね。その高揚感がベルバラの下地となっているのでしょうか…。
 自分は、学生運動が完全に沈黙をした頃に大学に入学をしましたので、口先ばかりの坊っちゃん嬢ちゃん世代…という後ろめたさがあります。片や職場を見まわせば、60年代世代の人々は、独特の挫折感をひきずっているように思えます。俺たちは社会に対してなにも言えない…言う資格がないんだよみたいなですね、えーとまたまた生半可な知識ですみませんが、でも、丁度、東大の山本義隆氏が“あの頃”について口を開かないのと同じ、革命いまだならず、のまま体制へ順応していった…という後ろめたさがやはりあるのではないか、と(こんな薄っぺらな言葉ではくくれない重みを持った時代であるとはわかっているのですが…)。それに比べ、70年代世代の人々の中には、既存の価値観に対して疑問をぶつけることを権利とする、という意識が比較的損なわれることなく温存された、ということはありませんか? 授業を中断しての討論会など、聞くだにわくわくさせられます。池田理代子さん、竹宮恵子さんの作品の元気の良さは、なるほど、そういう時代の熱をうつしとっていたのですね…。
 が。しかし。それでもなお、そのエネルギー温存を可能にさせたのは、高度経済成長ではなかったのか、という疑問がしつこく残るのです。女性の社会進出の図式は我ながら陳腐であります。でも、若者(これも陳腐な言葉?)の発言を社会が許容し得たのは、豊かになりはじめた日本の社会を、彼らが、本気で、根底から覆そうと行動するはずがないじゃないか、というゆとりが大人の側にあったからだ、とは言えないでしょうか。「毛糸玉にじゃれないで」の主人公、煙草をふかしてクラスメートをぎょっとさせたあの女の子も、結局は、わたしはお母さんと同じようなお母さんになりたいんだ…というような台詞を口にするのではなかったでしたっけ…。という意味で、高度経済成長を振り出しにしたあの図式に、こだわってしまうのです。女性が解放されていたのは、物語の中だけ、という部分ももうちょっと考えてみたい気がします。

 と、ここまで書いて、呂律がまわらなくなってきました。やっぱり、60年代、70年代の本質をつかんでおらず、突っ込みは無理のようでしたね。すみません。この夏は、ここら辺の読書に励もう…。
 倉田江美さんを持ち出したのは、彼女の作品、「エスの解放」あたりが、人間心理を題材にした作品の先駆けと言えるのだろうけれども、それは、今流行りの「エヴァンゲリオン」などに比べ、社会に対する自己の発露をどうしたら良いのだ、といった、やはり社会を見据えていた点で、あの頃の作品と言えるのだろうなあ…といったようなことが頭をよびったので、なんとなく打ってしまったまでで、ちょっと唐突すぎましたね。失礼をば。

 それにしても、やっぱり少女漫画は面白いですよ。
 管理人さん、少女漫画の世界に、ぜひぜひどっぷりつかってくださいネ。 

 では。
1136 (件名不明) 投稿者:オールドファン
  >それでもなお、そのエネルギー温存を可能にさせたのは、高度経済成
>長ではなかったのか、という疑問がしつこく残るのです。
 実態はじゅんのすけさんのおっしゃるとおりかも知れません。
 ただ、私たちの実感として日本は豊じゃなかったんです。「若者たち」って映画があります。長男(田中邦衛)が働いて弟たちを大学に行かせてやって、貧乏なアパート暮らしで、そのくせ兄弟で「結束して」ではなくていつも「口論」ばかり。あの映画が時代の雰囲気を表現しているように思います。
 「貧乏」で「ギスギスして」そして「理屈っぽい」それが私の記憶する70年安保=新左翼の時代です。マンガでいえば「同棲時代」、少し後ですがフォークソングなら「神田川」ですか。(正確には「同棲時代」や「神田川」のヒットは新左翼の敗北と若者の意識が社会から自分たちへ内向きになって来ていることの象徴だと考えられます)
 若者の反乱は日本だけではなかったこともあります。フランスの学生運動が新左翼のモデルですし、アメリカでは反ベトナム戦争、中国では文化大革命と世界中で既存の価値観に若者がNoと言っていた時代です。(と新左翼は信じていた)
 ただ、その一方で電化製品の三種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機だったはず)は各家庭に行き渡り、大学進学率も上昇していました。「女子大生亡国論」という言葉は既にありました。70年といえば大阪万博の年でもあります。海外渡航が自由化されたのもこの頃です。新左翼は労働者ではなく大学生が中心だったこともよく考えれば高度経済成長の証なのでしょう。

>授業を中断しての討論会など、聞くだにわくわくさせられます。
 そんなに面白くないですよ、この討論会の何割かはヘルメットをかぶった新左翼が教室に徒党を組んで乗り込んできて教授を追い出してしまうことから始まるんですから、「反発」やら「シラケ」やらが充満しているけれど徒党を組んでいる新左翼に「黙っている」ことも多かったですから。

>60年代世代の人々は、独特の挫折感を引きずっているように思えます。
 60年代も70年代も同じ挫折感を引きずっていると思います。ただ、あの頃のエネルギーを持ち続けている人は草の根で多く残っていると思います。(その反対に「日本軍国主義の打破」を唱えていたのに何の疑問もなく「日本株式会社の番頭」になっている人も多いですが。)
 吉野川の第十堰の反対運動に関連して中山前建設大臣が「逮捕歴のある人物が指導者だ」と非難していましたが、彼(逮捕歴のある指導者)などは当時のバリバリの新左翼ではなくて、大学で新左翼の洗礼を受けただけの人でしょう。
 山本義隆氏は多くの人の人生をしょってしまったから軽々に口を開けないのでしょう。一生「あの」山本義隆と言われてしまうわけで、それを変に資産にしないのも見識だと私は勝手に尊敬しています。 

本論のマンガに関して
 「毛糸玉にじゃれないで」の主人公に関して言えば、あの作品は喫煙シーンがなくても作品として問題はないんです。単に当時の時代の雰囲気として「少し背伸びをした部分のある」普通の女の子を表現したかっただけでしょう。
その喫煙シーンを差し替えたくなかったから萩尾望都は編集とやり合った。あまり理屈っぽく考えて反権威、既存の価値観の破壊など肩に力の入ったやりとりはなかったはずです。
 喫煙シーンを描けたのは彼女の作家としての力量が一番でしょうが、編集の指導に安易に従わない強さに(新左翼の)時代を私は強く感じます。

加藤さんへ
 「新左翼」「高度経済成長」「女性解放」が日本の社会でつながっていることは間違いないでしょう。ただ、「ジェンダーは新左翼の敗北から始まった」という言葉があるように単純に直線かどうかは疑問です。
 吾妻ひでおでしたら「ひでおと素子の愛の交換日記」(新井素子との共著)などはいかがでしょう。絶版でなければ角川文庫にあります。
1137 たまには今江祥智 投稿者:加藤 浩司 投稿日:2000/07/10(Mon) 23:36
   吉田秋生「ラヴァーズ・キス」。
 この人はふぁっしょなぶるな構図(絵)への嗜好が強い気がする。
 それをこの作家の魅力と感じる人もいれば、私のように鼻に付いてしまう人もいる。完成度の高さは認めるが好きになり切れないところがある。これが相性というものか。
 好きか嫌いかと聞かれたら、少し躊躇して「好き」と答える。

 今江祥智「帽子の運命」。
 2月の講演会の時に買ってサインもらったやつ。5ヶ月たってようやく読んだ。うむむ。ふむむ。いやいや。

 安保の話題はパス。当時の記憶はあまりない。

 実は私が初めて読んだ吾妻ひでおの漫画がその「ひでおと素子の愛の交換日記」なんですよ。単独の漫画より冴えているような気がします。
1138 批評、批判おおいに結構 投稿者:泉泰弘 投稿日:2000/07/13(Thu) 19:14
  「うむむ、批評されるのってそんなに嫌なものでしょうか。」
 確か加藤さんは他でも同じようなことを述べられていましたね。僕も同感です。
 前に書いたかもしれませんが、批評・批判は100パーセント悪意から出たものでない限り、必ず何か肥やしにできるものがあると僕は考えています。また、あらかじめ180度価値観が違う相手に批判されたら、「やっぱり自分のやり方はこれでいいんだ」と再確認することができますし・・・イカンのは誹謗、中傷だけ。
 ところで、今日の会議で、うちの大学の端末から他所で誹謗、中傷を行った人間がおり、サーバ管理者が猛烈な抗議を受けたという報告がありました。これを機に、以後は罰則規定を作ってそういう行為に厳罰が科せられることになるようです。これで荒らし行為がやりにくくなったな。

 さて、注文したブルックナー交響曲24種のうち、国内盤の現存する15種は全て届き、あとは輸入盤待ちです。マゼール盤は7番は在庫があり、8番は品切れとのこと。名古屋出張はなくなったのですが、よく考えると来月の海外出張ではいわゆる外資系レコード店の本場に行ける可能性もあるのです。もし行ける機会があったら手当たり次第CDを買って帰ろうと思っています。それが夢と終わった場合、加藤さんにお願いすることになると思います。
1139 批評するな 投稿者:加藤 浩司 投稿日:2000/07/14(Fri) 03:10
   どうも根っ子にあるのは「批判されたくない」という感情で、それをルールとかアンフェアとかいう話に摩り替えて論じて論理に破綻を来たしているような気がします。民主主義国家で「批評するな」なんて理屈が通るわけはないんだから。
 これもあちらの掲示板に書こうかと思いましたが、とりあえずここで述べるのに留めておきます。私の思い違いという可能性もあるので、あちらに書くかどうかは今後の展開次第。
1140 まだ続いてたんだ 投稿者:相馬契太 投稿日:2000/07/14(Fri) 09:57
   でもなー、俺は「批判」じゃなくて「悪口」専門だから。
 なんて書くと本気にされるからやめておこう。うそうそ。悪口なんて言わないよ。
「批判」「批評」というのは、考えを深めていくのにどうしても必要なことで、むしろそれがない場所でしか発言していないと言う人のほうがおかしい。
 だって、そこから先にどうやって進むの?
 批判されるのは歓迎することじゃないのかな。
 当然“有効な”批判や批評であることが望ましいのだけれど、それが“有効”か否かは、その批判なり批評がされてみないと判断できなくて、しかもその基準なんていうのはその場その場でしか決まらないもので、文句を言う人は、それを作っていくという作業に耐えられないんじゃないかな。
 なにかしらラインがないところでは発言できない、と。
 寄りかかる場所がないので、立場をはっきりさせなくちゃならないから。
 よって立つ場所が不安だから、「ルール」や「アンフェア」なんて言葉も出てくるのかと思います。
 でもねー、「批判」は決して「悪口」ではないので、つまりする側される側がお互いに協力していく過程だと、まあキレイにまとめるとそうだと思うんだけど。
 それこそ基準作りからね。

 さて、よその掲示板のことを話題にすると「陰口」という言葉がどうしても出てきてしまうが、それをおっかけて見に行けるのがインターネットというものじゃないかと思ってたんだけど、違うのか。
 大体、加藤さんはリンクも貼って、自分の掲示板にも意見が書いてあると明言してるのだから、それを「陰口」と言えるのか?
 そのやり方なら、見に来てそこの掲示板には書き込みせず、よそで「陰口たたくな」というのも「陰口」になってしまいそうだけど。
http://www.simple1-j.com/k-bbs/kbbs.cgi?bn=010446
1141 あまり関係ない話 投稿者:相馬契太 投稿日:2000/07/14(Fri) 11:31
   萩尾望都の力量といえば、彼女は小学館発行のコミックに句読点を入れさせていない。
 これは彼女1人かもよ。ひょっとして。
http://www.simple1-j.com/k-bbs/kbbs.cgi?bn=010446
1142 言論弾圧 投稿者:加藤 浩司 投稿日:2000/07/15(Sat) 01:49
   こんな大仰な言葉は使いたくなかったが使ってしもうた。
 で、後になって気付いたが「道義的」な話をしていたはずなのに「自由」だ「弾圧」だなんて言い出したらこれは法的な話になってしまう。
 まあどちらも根っ子は同じだから問題ないか。法の理念は道義的見地に根ざしているのでアル。多分。

↓こちらの掲示板でやんす。
http://www.tcup3.com/339/hico.html
1143 勘弁してくれ 投稿者:相馬契太 投稿日:2000/07/15(Sat) 13:22
  「作家の地位が下がっている」って、作家なんてずーっと地位が低くて、作家になるなら勘当されるくらいの職業だったんじゃないのか。
最近上がってきたんだなあ、なんて思ってたのに。
「マンガなどの柔らかいもの」発言には呆れるをとおり越して悲しくなるというか、一体いくつやねん! そんな時代錯誤なことを言ってるようじゃもう。
 マンガが小説より優れた表現方法だったからこそ、現在の隆盛があるのだろう。
 だいたい堅いか柔らかいかって、何の基準だ。
 面白いとかなんとか、そういうことじゃないんだ。作品の評価って。
 そりゃ「批判」も受け付けないだろう。
 そんな権威コジキじゃあね。
 筒井康隆読めないんだろうな。
http://www.simple1-j.com/k-bbs/kbbs.cgi?bn=010446
1144 幸か不幸か 投稿者:ゆき 投稿日:2000/07/15(Sat) 15:32
   ご無沙汰しております。東京に移住しました。日本じゃないね。というより私の住んでいた北海道が日本じゃなかったんだ。というぐらい異質なところです。

 なんとかロムはしていたんだけど、話の流れを追うのが精一杯。
 いろいろ面白い人がいるんですね。会社で「会議中の居眠り、出席者全員気付いているぞ」などとお小言を食らっていた頃が懐かしい。今ならそんなこと言われずに黙ってボーナス下げられちゃうよきっと。何にせよ指摘してもらえる方が常に幸せだと思う。(上司にすればそうする義理は全くないのにねえ)

 上の例は会社の人間関係を前提にしているから、ネット上の議論とは違うけれど、暴言を言い捨ててる人と、わざわざ反「論」として組み立てて書いてくれてる人との違い、って読んでもわからないものなのでしょうか。

 パンクロッカーにとって、芥川賞っていうのはどういう意味なのかしら。
 良いことなのか悪いことなのかよくわからない。とりあえず厳選して持ってきたCDの中に「メシ食うな」はあったので、今聴いてます。
1145 パニック 投稿者:加藤 浩司 投稿日:2000/07/15(Sat) 23:53
   いや困ってしまった。
「ちょっと論点がずれてる」とか「ちょっと意味がわからない」とかだったら話の繋ぎようもあるけれど、一切理解できなかった。
 気を付けてレスしたつもりだけど、悪意に受け取られないか心配。

 え、ゆきさん東京に来たんでっか。プロレスのオフ会にぜひ来て下さい。
「彼氏のいる所に引っ越す人がいる」とかいうの、もしかしてゆきさん?いや、それは横浜でしたか。
1146 2chにおいで 投稿者:みんな遊ぼうよ 投稿日:2000/07/17(Mon) 07:20
  2chより
>2)荒らしについて
>掲示板上で、意味不明な言葉やアスキーアートの連続書きこみなど荒ら
>し行為に遭遇した場合は、その場で諌めたり挑発したりなど、むやみに
>対抗しないようにお願いします。
>荒らし行為を行う人物は、利用者の反応を楽しむ愉快犯が大半ですの
>で、逆効果になる可能性が高いからです。
>削除依頼掲示板などでご報告いただければ、削除人が削除にあたります。
>冷静なる判断をお願いいたします。
1147 私は人間 投稿者:みんな遊ぼうよ 投稿日:2000/07/17(Mon) 07:21
   加藤さん理解できる?
1148 もしかして? 投稿者:みんな遊ぼうよ 投稿日:2000/07/17(Mon) 07:22
   人間だったら分かるよね?
1149 みんなお待ちしております 投稿者:みんな遊ぼうよ 投稿日:2000/07/17(Mon) 07:24
  http://www.2ch.net/
1150 みんな遊ぼうよ 投稿者:泉泰弘 投稿日:2000/07/17(Mon) 08:50
   2chとはウェブサイトのことだったのか! 関西ではNHK総合テレビのチャンネルなので、いままで意味が分かりませんでした。
 つい挑発みたいなことをやってもうた。ここが戦場と化す日も近いか?
1151 謝罪と説明(長文失礼) 投稿者:相馬契太 投稿日:2000/07/17(Mon) 13:07
   俺自身は、今回の「権威コジキ」という言葉の選択にも、その指す内容にも、全くと言っていいほど問題を感じず、当然「中傷」とも思いませんが、
・ 差別用語や放送禁止用語に無闇に敏感な人もいる
・ 意味について説明不足だった
という2点から、いらない誤解や不快な思いを与えたかもしれないとは思うので、それについては謝罪しておきます。どうもすみません。
 そこで改めて説明すれば、野中さんの書き込み全般、特に、「マンガなど柔らかいものを好まれているらしい加藤氏」「エッセイというものの定義が、わたしの考えているものより柔らかいもの」といったくだり、ここが俺には気になって仕方ないわけです。
 この書き込みで、野中さんの内部にこんな図式があることが見て取れます。
 それが意識的か無意識的かは知りませんが(無意識だろうと思いたい)。
「文学の方がマンガより格上」
「その文学の中でも“堅いもの”はより上等」
「“堅いもの”を好む人は“柔らかいもの”を好む人より高レベル」
 だから、低レベルの人と話をするときには「いくらかの想像力を働かせ」なくてはならない、と。野中さんがそういうモノサシをもつのは勝手ですが、それで加藤さん(やマンガファン)を一段低く見て、バカにするのは変でしょ。
 しかも、そのモノサシの根拠が、「堅いから上等、上等だから堅い」というわけのわからない理由なんですから(俺には、そっちのほうがよっぽど“中傷”に近いような気がしますが、どうでしょう)。
「ブンガクとはナンカイなものだ」みたいな価値観をいまだに持っているなら呆れてしまうというのが本音ですが、まあおいといて、「ブンガクとはナンカイなもので、それを理解できる自分はレベルが高い。レベルが高い自分が読むのだから、ブンガクはナンカイでなくてはならない」。
 こんな堂堂巡りの論理。内実を見ないで「堅い・柔らかい」といった外形的なもので判断する姿勢。しかも、その根拠は非常に曖昧。しかし、曖昧なままでそのモノサシを他人に適用してしまう。これを称して「権威主義」と言うのに異論はないでしょう。
 それよりも、もっと適当なのは「権威コジキ」だと俺は思ったということです。 なんてったって、“権威“が欲しくて仕方ないんだから。「権威亡者」でもいいですよ。「権威ありがたがり」でもかまいません。なんでもいいですが。
 以上、長くなりましたが、「権威コジキ」の説明です。
 繰り返しますが、野中さんがどんなモノサシを持っていてもかまいません。
 しかし、それを他人に振りかざすときはその拠って立つところを明確にしろと。
 そうではなく、単純に「エライからエライ」じゃどうしようもないでしょう。
 「堅いのが上等」なんて、センベイの品評やってんじゃないんですから。
 Nakayamaさんにしても、いまどきフランスを持ち出されてもねというか、そんなのは『おそ松くん』のイヤミか、トニー谷で終わったと思ってました。
 少なくとも俺には「あのモンテーニュの『随想録』」を読むよりも、東海林さだおの「前日の冷えた味噌汁を、台所に立ったまま、お玉で直接飲むのはウマイ。特にキャベツの味噌汁」なんてエッセイを読んでるほうが、なんぼかためになります。それこそ、天下国家を論じたものよりも。

 ついでですが、俺の掲示板にあった「語り得ないことには口をつぐめ」という発言をとらえて、「掲示板て何を言ってもいいんじゃないの、おかしいよ」との反論は、本気とすればあまりに幼稚で、野中さんの読解力が疑われてしまうような質問なので、冗談が失敗したんだと受け止めて、ここではあえて触れません。
 まあ、書いた本人が説明してくれるかもしれないし。
 俺は、自分の掲示板のスレッドに「怒れマンガファン&文学ファン」とタイトルをいれましたが、勝手に低く見られてしまったマンガファンだけでなく、野中さんの書き込みから「ああ、文学好きって、こんなに頑迷で偉そうなんだ」と思われてしまっては他の文学ファンが迷惑しちゃうなーと、野中さんの書き込みは、そんな内容だと思ってます。
 挙句に、上記のような、子どもじみた反論じゃ他の「活字中毒者」からも苦情がきちゃう。
「そんなつもりはない」と言うなら、「そう見えるから気をつけたほうがよろしいですよ」と直しておきます。もちろん、そんな言い訳信じてませんが。

 それで、この話はこれからはここでやりたいなと、加藤さんにも断らず勝手に思っているのですが、どうですか? 向こうでは向こうに「ふさわしい」話をすればいいでしょうし。
 余談ですが、この「ふさわしい」にも、例のあのにおいが漂ってることに気がつきますか。それとも俺の思い過ごし?
http://www.simple1-j.com/k-bbs/kbbs.cgi?bn=010446
1152 お願い 投稿者:泉泰弘 投稿日:2000/07/17(Mon) 13:35
   実はこのような文章を準備して書き込もうとしていたところでした。
 いま考えるに、向こうは「例外的」にしか書き込まないはずの場所なのだから、こっちにしよう。

野中さんおよびNakayamaさんへお願い
 お二方の発言が加藤さんご自身の、および加藤さんが出入りされている相馬さんの掲示板で批判の槍玉に挙げられていることは既にご存知だと思います。正直なところ、私も以下のような言葉を用いれば反発を食らうのは当然だと思っております。

一般的な本好きの方々
マンガなど柔らかいもの
何でもありの雑文
エッセイレベル
感想文レベル (何にせよ○○レベルというのは蔑視と受け取られかねない)

 私はマンガやエッセイなどとともに古典文学など「堅いもの」をも愉しむ人間でございます。「堅いもの」を愛好する人間に対する偏見ができてしまってはこちらも非常に迷惑いたしますので、以後なるべくこのような表現は慎んでいただけないものでしょうか?
1153 …にしてもだ 投稿者:相馬契太 投稿日:2000/07/17(Mon) 13:54
   いきなり何の説明もなしで「コジキ」呼ばわりはほとんど“罵倒”と言ってもいいくらいかもしれない。
 きちんと説明しないとね。
 今回はその点、失敗しました。
 重ねてお詫び。すみません。
http://www.simple1-j.com/k-bbs/kbbs.cgi?bn=010446
1154 町田町蔵 投稿者:相馬契太 投稿日:2000/07/17(Mon) 15:41
   町蔵の方がしっくりくるよな、やっぱり。
 芥川賞受賞は「アフロでファンキーなビート」みたいな気分らしい。
 しかし、厳選してINUのアルバムを持っていったのか、じゃあ、スターリンも持っていったのかとアレコレ考えたが、オーケンの「ONLY YOU」を持っていったのかな。

 ところで、あの車、クーラー効かないの?
 私信で申し訳ない。
http://www.simple1-j.com/k-bbs/kbbs.cgi?bn=010446
1155 「愚問」というよりは「と」でしょう
投稿者:泉泰弘 投稿日:2000/07/17(Mon) 18:47
   相馬さんと同じく、議論はこっちで続ける方が良いと考えているので、向こうの投稿を見て感じたことをこちらに書き込みます。(例外も続けば例外でなくなりますし・・・・)

 まず、ここでの「醜い」発言ですが、あれは行為自体が十分荒らしに相当するものであって、決して「捉え方」の問題ではないと考えます。また荒らしであるか否かは、どういう心理状態のもとに書かれたか(「こみ上げてきた感情の発露」であるか、あるいは「冷静さを保っての投稿」であるか)とも無関係のはずです。
 荒らしが出たついでに書きますと、あちらでは加藤さんは訊かれたことにはきちんと答え、理解できないことは「理解できない」と述べ、誤解を招いた場合にもその都度謝罪されています。そのような方をつかまえて、いきなり「あなたは掲示板荒らしなんですか?」「悪いことだとわかって、その行為を行っているのですか?」などと問いただすという野中さんの態度が僕には理解できませんでした。なにゆえに加藤さんの行為を「荒らし」「悪いこと」と考えるのか、その根拠を示してはもらえないかと思った次第です。

 それから、前置きとして自分の見方を「皮相」と断るというのも随分と奇異な感じを受けました。むしろ、もう少し深く考えた上で発言するべきなのではありませんか? 最初にこのような言い訳をすれば失礼なこと(荒らし扱い)でも許されるとすると、「わたしの皮相な見方で見る限りにおいては、野中さんは文章の読解力、表現力ともお粗末であるという気もしなくはありません」でも構わないことになってしまいます。

 「愚問ですが…」中の加藤さんへの問いかけは、「愚問」というより、とんでもない「勘違い投稿」としか思えません。あれでは問われた方も閉口するしかないでしょう。

 最後に、失礼を承知で質問しても良いのなら、野中さんは本当に常々から「堅いもの」を愛読されている方なのか訊いてみたいところです。僕には(マンガも含めた)「一般的な本好きの方々」の方が読解力があり、主張にも筋が通っていてわかりやすいと思えますので・・・・・・
1156 柔かくてはいけませんか? 投稿者:じゅんのすけ 投稿日:2000/07/17(Mon) 21:48
   漫画って柔らかいものなのではないでしょうか。
「源氏物語」だって、書かれた当時は、あないな柔らかいもん、まともな男が読めますかいな、と、固いもの・外国輸入もの・漢文もの・つまらないもの命の人たちに一段低く見られていたのでは…。んでもって、女の人たちに、フッ、だ〜から男ってバカなのよね〜っと扇の陰で笑われていたのでは…。
 柔らかいもの、レベルの低いもの、女子どもの好むものって、面白いんですよ、きっと。あまりお高い所にいってほしくないから、柔らかくっても別にいいなあ…。

 それにしても、柔らかいものをバカにするのって、児童文学ファンの自爆行為ですよ。だって、純文学からしたら、児童文学って柔らかいんでしょ? でも柔らかいから面白いのでは??
1157 黒鯖大樹の発言に関して1 投稿者:黒鯖大樹 投稿日:2000/07/17(Mon) 23:56
   別掲示板で加藤さんへ、野中氏から新たな問いかけがなされています。
 その中で、私の発言を元にしている問いかけがあったので、私の発言について、この場を借りて釈明しておきます。

 言葉の定義を共通にしたからといって、必ずしも議論が収束していくわけではないのですが、野中氏が引用した私の言葉に、誤解があるようなのでそれについて釈明します。

野中氏は次のように述べています。

>さてと。ではわたしからも、簡潔に質問をしましょうか?
>加藤さん、あなたは掲示板荒らしなんですか? ご自分にそういう自覚がありますか?
>悪いことだとわかって、その行為を行っているのですか?

>もうひとつ。加藤さんの掲示板の常連である方の掲示板を拝見したら、
>わたしとNakayamaさんのここでのやりとりが引用してあって、たしかその前後に、
>「権威コジキ」いう言葉が書いてあったように思うのですが、あれは加藤さんにとって、
>許されないはずの「中傷」にあたらないのでしょうか? それともご自分のサイトではない
>サイトのことまでは、面倒見切れませんか? 加藤さんご自身もあちらの掲示板の常連で
>いらっしゃるようですが。
>そういえば、「口をつぐめ」という激しい語調の書き込みもありましたっけ。
>「掲示板には発言の自由がある」というのは、加藤さんだけの個人の認識だったのでしょうか?


 後半2行が、私の発言を元にしています。
 ここまでで、野中氏は前半の畳み掛けるように質問を行う文体からかなりいらだっているように見受けられます。そのなかで、「あなたは掲示板荒らしなんですか?」と質問をしています。ここまでは、ただの質問とも読めますが、次の質問の一節「そういう自覚」から、野中氏は加藤氏を「掲示板荒らし」としてとらえていることは、はっきりします。
 いうまでもないことですが、「この人は掲示板を荒らしていると自覚していないのか」と考えるためには、野中氏に「この人によってこの掲示板は荒らされている」という認識がなければならないからです。しかし、なぜだかはっきりと「あなたは掲示板荒らしだ」とは言いません。質問に見せかけて自分の主張をするという、話し言葉でよくある修辞法を用いています。私は、その修辞法はすべて排除してみます。掲示板への書きこみは、話し言葉でなく書き言葉である以上、そのような主張の仕方は質問と紛らわしく、議論の妨げになるからです。

 ちなみに、私には、野中氏と加藤氏を中心とする議論が、掲示板を荒らしているとはまったく思われませんが、どうやら、野中氏は議論に際して、思うように発言できず、かなりのストレスを得ているようです。
 言葉は言いたいように言ったほうが、精神衛生上よいですよ。

 さて、「もうひとつ、」以降、相馬氏と私の発言を受けて野中氏は新たな問いかけを行っています。
 それをまとめると、

1、加藤氏を支援する相馬氏の発言は、中傷ではないのか。
2、「口をつぐめ」という私の発言は「掲示板に発言の自由がある」という主張に反している。
  「掲示板には発言の自由がある」というのは、加藤氏だけの個人の認識だったのか。

となります。しかし、野中氏はここでも質問に見せかけて、主張を行っています。
 一見この質問が冷静になされているように見えますが、

1’相馬氏の発言は中傷であり不適だ。
2’私の発言は「掲示板に発言の自由がある」という原則から外れていて、ケシカラン。
  加藤氏はこの原則を主張したのに、こんな発言のある掲示板の常連なのか。

ということを述べたいようです。特に2’に関しては、私の発言への怒りと加藤氏への攻撃を同時にあらわそうとして、原文ではなにを質問したいのかよくわからなくなっています。
 私の発言と加藤氏が「掲示板に発言の自由がある」という原則をどう認識するかの間に、どんな関係があるのでしょう。私の発言を問題にしたいなら、私に対して問いかけをしなさい。
1158 黒鯖大樹の発言に関して2 投稿者:黒鯖大樹 投稿日:2000/07/17(Mon) 23:58
   さて、私の言葉を再掲します。
>文学部って、悲しいよね。

>理系の世界で数学というものさしで個人的意見(仮説)が
>正しいか計れることを真似して、あこがれて、自分の意見が
>個人的ではない普遍的に通じるものだと言い張ろうとする人の
>多いこと。でも、大概、そんなものさしを見つけていない人ばかりだ。

>このコメントを書いたN氏にしても、自分の中に「一般的な本好きの方」とか
>「柔らかいもの」(当然、これの対岸に「堅いもの」があり、さらに言うと、
>この人のなかでは「堅いもの」の方が好まれている。)とか、自分のものさしが
>どこにあるのか、自分でわかっていない発言ばかり。やれやれ。

>人と議論をするときには、自分の立場をはっきりさせること。
>それすらできていない人には、なにも言う資格なし。
>語り得ないことには、口をつぐめ。これ以上、文学の名を辱めるな。
>以上、文学部卒としての怒りだ。


 私の発言は、前半後半二つに分けられます。前半「〜人ばかりだ」まででは、N氏=野中氏の発言を見て考えたこと、後半では野中氏の発言そのものへの感想となっています。

 前半では、野中氏が別の発言でいうところの「普遍的な真実について語られた文学」の「普遍的な真実」がなにをもって普遍というのか述べることもできないのに、印象のみで語られてしまうその危うさについて述べました。

 この危うさの具体例をあげましょう。
 この「普遍的な真実」の例らしきものとして、正しくは、「思いもよらないような作家のエッセイに深いものを感じて、驚くこと」の例として、野中氏は別の発言の中で、「いつだったかさくらももこのエッセイに笑いながらも感動していたことがありました」と述べています。果たして「感動」は「普遍的な真実」といえるのでしょうか。
「真実」という語がTrue/FalseのTrueで使われているとすれば、「感動」という体験はそのどちらとも関係ないので真実の例としては不適切ですし、「普遍的」の例というなら、一人でもそのエッセイで感動しない人を見つければ普遍的ではなくなり、やはり不適切です。
 野中氏は、エッセイが「普遍的な真実について語られ」ているとおっしゃっていますが、「普遍的な真実」という言葉ではなく、野中氏の考えるエッセイはもっと他の言葉で表したほうがよりよいのではないでしょうか。

 後半では、「普遍」だの「真実」だの述べる前に、自分の言いたいことを適切な言葉で書き表すことのできない人が多いことに、私は怒りを覚えたのです。
 その意味で、まだ書き表すことができないことを無理に発言しないほうがよいという警句として「語り得ないことには、口をつぐめ」と書いたのです。野中氏が加藤氏に問いかけているような、「掲示板に発言の自由がある」という原則に反するような主張はまったくしていないのです。

 ちなみに、本好きな人なら、この言葉がだれの言葉をパクッているか、気づきますね。

 以上、野中氏が私の発言を元にして、加藤氏と議論を続ける際にはこれを踏まえた上で、議論してくださいね。

 最後におまけ。ある哲学者の言葉。

 ある特定の人が部屋に入ってくるのを、君が欲しないのなら、その人たちが鍵を持っていないような鍵を、つるせばよい。
 しかし、そのことについてかれらに一席ぶつのは、愚かなことである。
 もっとも、部屋を外側からほめそやしてもらいたい、という魂胆があれば、また別だけれども。
 礼儀をわきまえた、気品ある態度。錠をあけることができる人だけに気づくように--いいかえれば、そのほかの人には気づかれないように--鍵を扉のまえにつるすこと。
1159 私信の返事など 投稿者:ゆき 投稿日:2000/07/18(Tue) 00:38
   こんなに酔っ払っているのでなければ何か書くのに。

とりあえず、
・加藤さん、プロレスは過去3回くらいしか見たことないけど、それでもいい
 のでしょうか? 見てると楽しいのですが、「いたたたた」という感想ばか
 りで。。
・相馬、ONLY YOUもあるけど町蔵はINUで持ってます。ごめん。スターリンは
 持ってない。あと、あの車にクーラーはついていません。だから東京には 
 持っていかないんだよ。21日に帰って22日の早朝から乗るので、打ち合わ
 せしましょう。

 これまで盛り上がっている議論に言及しようかとも思うのですが、私ごときがわざわざ言いたいようなことはありません。さまざまな他者の表現活動を自由に楽しめない人の方が圧倒的に不幸なのだから、嗚呼可哀想にと笑っていよう。という気持ちです。

 以前人に、トルストイを読んで楽しめるなら山田詠美も絶対面白いはずだと言ったのですが、あっさり却下されました。例えば「クロイツェル・ソナタ」なんて性欲過剰の妄想小説だと思うんだけどなあ(好きですけどね)。その人は山田詠美なんて助平なものは読めないとかなんとかいってました。読んでみたこともないくせに。

 上のかたまりは野中さんがどうこうということではありません。付随して思い出しただけなので、気にしないでね。
1160 つづき 投稿者:ゆき 投稿日:2000/07/18(Tue) 00:57
   酔ってるって言ってるくせにね。つけたし。

 人格的にはトルストイより山田詠美の方が上だと思う。

 会社で上司に無視されてると思いこんでたけど、被害妄想だった(らしい)。
 まだわからないけどね。
1161 相馬さん他の方々へ 1 投稿者:K.Nakayama 投稿日:2000/07/18(Tue) 02:10
   相馬さんの書き方でまず私が不快だったことは、野中さんの発言と私の発言が、あたかも漫画嫌いとかいまだに「文学」を「漫画」より上だと思っているアナクロ人間、などと見られるように、引用されていた部分が、私のもともと意図していたことを無視して上手に編集されていたことです。

 少なくとも、私は漫画が好きだし、その作品が優れているかどうかは、それが「漫画」であるか「文学」であるかには関わりないと考えていますし、漫画には漫画にしか表現し得ないものがあり、文学にも文学にしか表現し得ないものがあり、どちらが上、だという風には考えていません。むしろ、これからの社会への影響力で考えたら、漫画の方が上だろうとは思っています。質でも量でも、今の「文学」は圧倒されていると思いますし、それが逆転されることは、よほどのことがない限り、もうないんじゃないかと。
 ついでにいうと、漫画も「堅い」のと「柔らかい」のに分かれてきているとも思います。
(文学の中でかつて小説が柔らかいものの代表であったように)

 エッセイに関して、私がフランスの例を持ち出したのは、私が一応(というのは、私はフランス文学に特に造詣が深いというわけではなくて、もう少し別の事情から仏文科を選んだのでお断りしておきたいのですが)仏文科の学生で、英語圏やらその他の言語圏の事情についてはよく知らないけれど、フランス文学におけるエッセイと、日本でイメージされるエッセイの違い、だったらまあ発言できると思ったからで、モンテーニュについて触れたのは、フランスのエッセイのことを言うのに、モンテーニュの「エセー」に触れるのは、むしろ自然な流れかなと思ったからです。
 フランスのエッセイが日本のものよりちょっと「お堅い」ことをイメージしてもらうのに、わかりやすいのではないかと考えたのです。
 私自身、モンテーニュの「エセー」は授業でほんの一部を読んだことがあるだけです。
 その一節はおもしろかったし、それを読み込んだ現代の思想家の文章も一節だけですが一緒に読んで、現代に通じる問題を読み取ろうと思えば読み取れるものだ、ということは感じましたが、まさか全編読み通そうなんて思いもよりませんし、フランス人がみんなあれを読んでいるとは私も思いません。
 日本人が「徒然草」だの「枕草子」だのに学校で触れているくらいには触れているかもしれませんが。

 フランス文学におけるエッセイ事情、に関しても、複数の先生のおっしゃったことや、文学史の本で知りえたこと、などを総合して発言しました。自分で読んでの感想ではありません。
 その点誤解を与えるような書き方だったことは、反省しています。私にとしては、現在の日本におけるエッセイは、例えばフランスにおけるエッセイなどとは違うらしい、ということが言いたかっただけです。

 つぎに、泉さんからご指摘のあった、「何でもありの雑文」「エッセイレベル」「感想文レベル」といった言葉遣いですが、確かに、差別的であるととられかねない表現であることは認めます。
 ただ、その前提となっている、「柔らかい」と「堅い」に関してですが、野中さんがどういう意味で使っていらっしゃるのかはわかりませんが、私は読んでいてそれほど激しい反発を覚えませんでした。
 それは私が「柔らかい」=「程度が低い」、「堅い」=「程度が高い」という図式を頭においていなかったからです。

 それは単に文体とか、そこに適応される約束事とか、そういうものの特徴として、「柔らかい」か「堅い」と分類されるだけで、それを単純に価値判断と結び付けようとされる思考の方が、過剰反応という気がします。自分を「お堅い人間」というのと同じニュアンスで、むしろいまだに「お堅い」ものばかり読んでいる人間なんですが、というちょっと自分を卑下した発言、と私は読んでいましたし、「加藤氏とは」というところも、単に読んでいるものが違うようですね、というだけで、「柔らかい」とされた途端に「差別発言」とは、あまりにも短絡的な思考パターンではないですか?
「堅い」ものが好きなのは単に個人の趣味の問題で、そこに価値判断は絡んでいないと思いますが。
 そこに厳然とある硬直した図式って、実はコンプレックスの裏返しなのでは?
1162 相馬さん他の方々へ 2 投稿者:K.Nakayama 投稿日:2000/07/18(Tue) 02:13
   私の用いた、「エッセイレベル」とか「感想文レベル」という言葉も、単にそこで用いられる調子、約束事などの範囲がどうかということで、「感想文」が「批評」より下だ、といっているわけではありません。
 このレベルというのは、つまり「堅さ」のレベルです。堅ければ堅いほど価値も高いというつもりは全くありません。誤解を与えていましたならば、訂正したいと思いますし、今後誤解されないような言葉遣いをしたいと思います。
「雑文」という言葉には蔑みをこめたつもりはありません。
 私の愛用しております例の「新明解国語辞典第四版」によれば、雑文とは、「気楽に書き流した文章」のことです。加藤さんのお好きな「広辞苑」(うちのは第二版)の方には、「多く卑しめていう」とあるので、卑しめているととられたかもしれませんが、私の意図としてはそういうつもりはありませんでした。
「新明解」の方の意味でとっていただけたら、と思います。

 とにかく、あの「権威こじき」に関する投稿を読んで私が感じたのは、この人たちは自分の読んでいるものを「柔らかい」とされると「低く見られた」ととってしまう、「権威コンプレックス」の塊で、その短絡的な理解で他人の文章を歪曲してアジっては喜び合っている、じつはある意味「お堅い」人たちらしい、ということです。
(余裕がなかったので他の所はチェックしてません、権威こじきの所だけ読んで書いてます。)

 余談ですが、岩波文庫は好きなのと嫌いなのとあります。訳の読みやすさによります。
 岩波の児童書は好きだし、応援してます。もちろん、児童書にも問題のあるのは多々ありますが。
 出版社としての岩波は、売れない本を作り続けている所は応援してますが、返品不可なのは嫌いです。
 辞書は「新明解」が好きです。アナクロな所も含めて、味があります。
 その点、加藤さんが、一番無難で、権威の象徴みたいな「お堅い」「広辞苑」を引いておられるのをおもしろく感じました。「やっぱり」って、そこで安心してしまってるところが「やっぱり」権威コンプレックス、って感じで。

 売り言葉に買い言葉になってしまいましたが、趣旨がご理解していただけるよう書いたつもりです。
 不明な所がありましたらご質問ください。長文で失礼しました。
1163 なんか悲しい 投稿者:加藤 浩司 投稿日:2000/07/18(Tue) 02:53
   なんか2chのルールを引用してるけど、あんなのは2chの管理者がそうすべきだと思ってるからそうしてるだけのこと。1人の人間の主張に過ぎないのに、あれが「普遍的真実」とでも思っているんだろか。どこの誰かは知らねども、笑える投稿ありがとう。

 相馬さんの「権威コジキ」については、私は説明不足とは思わなかったな。
 泉さんと黒鯖さんは、私が思ってて書かずにいたことを書いてる。結局私もあちらにいくつか書いたけど。
 それからゆきさん、プロレスを観た後は必ずと言っていいほど仲間と飲みます。ぜひ観に行きましょう。

> その点、加藤さんが、一番無難で、権威の象徴みたいな「お堅い」「広辞苑」を引いて
> おられるのをおもしろく感じました。「やっぱり」って、
> そこで安心してしまってるところが「やっぱり」権威コンプレックス、って感じで。


 ……Nakayamaさん、書いてて恥ずかしくないですか?
 なんか悲しい。
1164 論点が違う 投稿者:相馬契太 投稿日:2000/07/18(Tue) 11:36
   それこそ、都合よく編集したということはありませんが、Nakayamaさんと野中さんの文章を併記して、反論は一気に載せているので、そこでは誤解を与えたかもしれません。マンガに言及してるのは野中さんですね。
 この件はきちんとわけるようにします。
 ちなみに俺は、野中さんは「アナクロ人間」だと今の段階では思っています。
 さて、あのように感じるのは実はあなたたちが「権威コンプレックス」であるからではないかと、こういうNakayamaさんの主張ですが、これを言い出すとキリがないというか、発展性のない反駁の見本みたいなものなので、どうしようかと思っているところです。
「男女差別はない。お前らが意識しすぎているだけだ」というのと似てますね。
 それを言うなら、確かにこちらが過剰に反応している部分はあるかもしれない(ただしコンプレックスではない)。しかし、あなたも余りに愚鈍ではないかと、こう言うしかない。しかも、その愚鈍ぶりに余りに寛容じゃないかと。
 俺自身は「堅い・柔らかい」という基準を持たないので、それが何を指してるのかわからないのですが、確かNakayamaさんの発言では、こういう流れで出てきたように記憶しています。

「作家のエッセイとは人生や国家を論じるもの」という野中さんの意見を受け、それがエッセイの“本来の姿”であり、フランスではエッセイといえば『随想録』という“堅いもの”だ。それに比べ日本は“何でもありの雑文”が主流で、想像するに“作家の地位が低い”ので、売るためには“高所から論じない方が良い”からではないか。
 さらに、「批評」と銘打つならばエッセイレベルで物を書くのは失礼だ。
 この“エッセイレベル”というのは“感想文レベル”ということであり、これは「批評」には含めない。

 これを読む限りでは、「感想文」は「批評」より下で、「雑文」は売らんかなの程度の低いものだと取れるのですが、どうですか。今回は(も)、歪曲してないつもりですが。

 さて、ここでこんなことを言うと混乱するかもしれませんが、俺はそれでもかまわないと思っています。自分の中で優劣をつけること、それ自体を否定する気はありません。
 問題にしてるのは、そういうモノサシを他人に対して使うなら、その根拠を示しなさい、とこういうことです。「堅い・柔らかい」とは何か。なぜそれが「本来の姿」なのか。
「柔らかい」と言われて、「なに、そんなバカにしやがってコノヤロウ」と怒っているわけではありません。
「“柔らかい”ってなんだよ。そんななんだかわからないもので勝手に他人と、その他人の好きなものを計るなよ」と、こう怒っているわけです。
 長くなったので、別枠で続きます。
http://www.simple1-j.com/k-bbs/kbbs.cgi?bn=010446
1165 Nakayamaさんへ 投稿者:泉泰弘 投稿日:2000/07/18(Tue) 12:28
  「堅い」「柔らかい」についてのお考えはよく分かりました。
 ここで僕のある経験をお話ししますと、加藤さんの別の掲示板で「小難しいことを書いてすいません」と述べたところ、思いもよらなかった反発を受けて驚いたことがありました。(「驕慢」という批判も受けました。)僕は謙遜の意味を持たせるつもりで、あるいは少々自嘲気味に「小難しい」という語を用いたのですが、それが全く伝わらなかったのです。
 いま考えるに、ネット上では「堅い」「難しい」等の言葉は相手に対して用いる場合(例:「難しいもの読んでるのね」)には問題ないけれど、自分に対して用いるのは甚だ危険であるという気がします。先も述べたニュアンスが伝わらず、そのまま受け取られてしまう可能性があるからです。
 ただし、野中氏があれだけ多くの批判を受けたのはそのことだけが原因ではなく、彼がその後も言葉遣いに対する配慮の欠けた発言を繰り返していたからです。僕も「堅い」「柔らかい」だけだったら、それほど気にならなかったと思うのです。

 次に引用に関して僕の考えを述べます。
「作家の仕事というのは作品を産み落とすまでである。次の瞬間から作品は一人歩きを始める。その作品に対していろいろ無責任な批評がなされること、時には意図とは全く違う受け取られ方をすることがあっても、それはそれで仕方のないことである。」ある作家が批評に関するエッセイでこのようなことを書いていました。(実は昨晩必死で蔵書を探したのですが、残念ながら出典が判明しませんでした。ご容赦下さい。)
 こういう考え、つまりNakayamaさんのように「勝手に自分の書いた意図を無視した議論が展開されるのが嫌」という訳でもない作家も存在する(あるいは存在した)ということは記憶の片隅に入れておいても損はないと思います。そもそも曲解されるのは芸術作品の宿命ともいえるものではありませんか。憲法や党の綱領じゃないんだし。
(余談ですが、作曲家の武満徹は、自作が全く意図しなかった解釈で演奏された時、「こういう解釈もあるのか」と却って喜んでいたそうです。)

 さて、以下は加藤さんが少し前に書かれていたことですが、
>無論曲解がないのに越したことはありません。けれども論じるのが自由ならば
>曲解するのも自由だとも言えます。仮に曲解していたとしても、その誤った解
>釈そのものが論じる対象として価値があり、論じる人がそれでよしと思ってし
>まえば問題はないわけで。その場合議論そのものが一人歩きし、原文の意図が
>どうであったかは、ある意味どうでもよくなります。


 僕も基本的には同意見です。基本的にというのは、もっと踏み込んで、価値があろうが無かろうが議論そのものが一人歩きしても全く構わないと考えているということです。これも「作品は産み出された瞬間から原著者の意図を離れて一人歩きする」という考えに基づいてのことです。同じ理由で

>それと、私はどちらかというと「言論の自由」よりも、原著者の意図を
>より尊重すべきだという立場です。おわかりかと思いますが。


 ・・・・・というNakayamaさんのお考えとも僕は正反対です。「芸術は人間に奉仕するもので、人間が芸術に奉仕するものではない」というこれまた誰かの言葉からも、言論の自由と原著者の意図とを天秤に掛けた場合に、問題なく言論の自由の方が重いという判断が下せるように思います。

 僕は「他人の文章を引用する際のルール」も、「了解を得るべき」「一言断るべき」必要も一切要らんと思います。むろん、人の言葉を自分のものであるかのように用いる「盗用」はイカンので、引用に際して他人が言っていたということが読者に解りさえすればそれで十分と考えます。後で「それは誰の言葉ですか」と訊かれたら、その時にはじめて分かる範囲で答えればよい、そう思っています。